コロサイ人への手紙−9回で大筋を−その1

<1回>
2011年6月26日
聖望キリスト教会 主日礼拝

『御霊による愛』
コロサイ1章1−8節
[1]序

(1)2011年6月から2012年3月まで9回の主日礼拝で、コロサイ人への手紙に集中し通読します。この期間、各自がコロサイ人への手紙を生活の現場で反復繰り返し味読・身読なさるようお勧めします

(2)最初に、予定表の下段に書きました、「コロサイを貫く二本の柱」に意を注ぎます。
第一の柱、
①御子イエス・キリストについての事実・「真の知識」(1章9節)→キリスト論
すべてのものに勝る、キリストの主権、1章16節、2章15節。
キリストと創造、万物の創造の根源、中心、目的。1章15−17節。
キリストのうちに「満ち満ちた神の本質」(1章19節、2章9節)。
第二の柱
②頭であるキリストとからだであるキリスト者・コロサイ教会の兄姉との一体・一致
 キリスト者生活の源泉。禁欲生活などで功徳を得るのではない。→教会論(・・・なるより根源、・・・であるを直視)。
まずは柱が大切、土台骨です。しかしそこに留まるのでなく、細部にいたるまで意を注ぐのです。真理は細部に宿るのですから。

[2]コロサイ教会の誕生と特徴
(1)エパフラス、コロサイ教会誕生に当たり鍵の人物、
1章7節、「これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、」
神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。」

ピレモン23節、「キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。」

(2)制約と困難
パウロが直接開拓した教会でなく、しかも地域の歴史的背景とかかわる混合主義・シンクレティズムの影響を受ける。パウロの手紙を受け取った教会の中で、もっとも小さい群れとの判断、やはり特に興味深い。この背景の中で、
「御霊によるあなたがたの愛」とパウロはコロサイ教会の人々−エパフラスのように私たちに名前が伝わっていない、文字どおり無名な人々−間で現実となっている特徴を明示しているのです。

[3]「御霊によるあなたがたの愛」、聖霊ご自身と愛
参照1章4節
「それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。」
パウロの目に映るコロサイ教会、キリストに対する信仰、人々に対する愛。

(1)御霊の実の第一としての愛、すべての実の源泉。
ガラテヤ5章22,23節
「しかし、御霊の実は、愛→、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

(2)実が結ぶためには、木は植えられた場所から逃げ出せさない。私たちも逃げ出さない。留まることで、やがて土壌さえ改善。
「その人は、
 水路のそばに植わった木のようだ。
 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
 その人は、何をしても栄える。」

[4]集中と展開
(1)集中
コロサイ教会のような「小」に意を注ぐ。決して軽視しない、まして無視しない。
①マタイ18章2節、「イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて」→人
②ルカ16章10節、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」→こと。
③一番短い・小さい詩篇117篇、その驚くべき豊かな内容。

(2)展開
「はじめは小さく、計画は大きく」。スイスの新約学者アドロフ・シュラッターのことば。
はっきりした全体像を心に留めて、涙とともに小さな種をまく人、種入れをかかえ、泣きながら出て行く教会、そのような生活・生涯への整えをコロサイの味読・身読を通して、
そうです、御霊による聖望キリスト教会各自の愛のため祈ります。


<2回>
2011年7月31日
聖望キリスト教会 主日礼拝

『明確な祈り』
 コロサイ1章9−14節 
[1]序

(1)前回6月26日(日)には、コロサイ人への手紙全体を見通しながら、1章Ⅰ−8節に焦点を絞り、エパフラスまたコロサイの教会についてのパウロの深い洞察を味わいました。

(2)「こういうわけで」(9節)
 今朝は、まず9節文頭の「こういうわけで」に注目したいのです。
 1章Ⅰ−8節に見た、コロサイ教会に満ちる聖霊ご自身による愛をエパフラスから聞き知ったので、「こういうわけで」(9節)パウロは、1章9節以下の明確な祈りに導かれるのです。
信頼できる人を通しての正確な情報と明確で的確な祈りの生きた関係を見ます。

[2]明確な祈りの内容、1章9−12節 
 コロサイ1章9−12節の新改訳では、「・・・ますように」が3回繰り返され、祈りの内容を明示しています。
(1)9節、「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみここ
ろに関する真の知識に満たされますように」

(2)10節、「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」

(3)11、12節、「神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」

[3]明確な祈りの根拠、明確な恵みの事実、1章13,14節
 1章13、14節で、パウロは、明確な祈りの根拠が導かれてくる根拠・明確な恵みの事実を明示しています。

(1)13節、「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」
 祈りの根拠は、祈る私たちの側に有るのではない。そうではないのです。「神は」なのです。先手は、生ける神ご自身です。この事実をいつもはっきりさせる必要があります。
 生ける神ご自身の救いの御業を二つの面から明示しています。
①・・・からの救い・解き放ち、「私たちを暗やみの圧制から救い出して」。
②・・・への解放・恵みの立場、「愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」
 
(2)14節、「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」
①私たちの祈りは、どこまでも徹底的に御子のうちにあっての恵みです。
私たちは祈りを、「主イエスの御名によって」と結び、この事実を指し示します。
②深く励まされる祈りの根拠、「贖い、すなわち罪の赦しを得てい」る恵みの事実。

[4]集中と展開
(1)集中
「絶えずあなたがたのために祈り求めています」(9節)
継続的祈りと共に、断続的祈りの側面も大切に。
祈りをやめるもっともらしい言い訳。しかし「言い訳せずに主に従う」

(2)展開
真に驚くべき私たちの祈りへの助け
①主イエスご自身が弟子たち・私たちに祈りを教えて下さる。
ルカ11章Ⅰ−4節。

聖霊ご自身がどう祈ったらよいかわからない私たちを取り成して下さる。
ロ−マ8章26、27節
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」

聖霊ご自身と主イエスのみこころを書き記す神の言葉である聖書に導かれ、神のみこころを明確に祈る、明確な祈りは、聖望キリスト教会の私たちの特権、また義しい務。

④情報社会と言われる現実の中で、情報と祈り。情報→祈り。祈り→情報の判断・識別。


<3回>
2011年8月28日
聖望キリスト教会 主日礼拝
『すべて御子によって』
 コロサイ1章15−23節 
[1]序

(1)主の御名を讃美します。
 月1回の割合で6月に開始したコロサイの連続講解宣教も、今朝は3回目、全体で9回の三分の一になります。夏から秋への季節の移り変り、アドベントから降誕節も視野に入れながら、礼拝の生活の営みを重ねる恵み、感謝です。

(2)この1章15−23節に、コロサイを貫く二本の柱が鮮やかに浮かび上がっています。
 ①15−20節、御子キリストについての事実・「真の知識」(1章9節)→キリスト論
 ②21−23節、頭であるキリストと一体と結ばれからだであるコロサイ教会→教会論

[2]1章15−20節、御子キリスト、一面でなくすべて 
 御子キリストについての「真の知識」〈1章9節〉、「しっかりした土台」(1章23節)をパウロは、祈りつつコロサイ教会の兄姉の心に刻み込んで行きます。その中心は、「すべて御子によって」(1章16節)。これこそ原点であり、源泉です。
(1)15−17節、御子キリストと万物−創造の御業−
 ①「万物は御子にあって造られた」(16節)。キリストと万物の創造。
 ②「万物は、・・・御子のために造られた」(16節)。キリストと万物の目的。
 万物は、目的をもって創造された、意味のある存在なのです。決してむなしいものではないのです。まさに存在の喜び、一切の虚無主義・「どうせ私なんか」からの解き放ち!
「主よ。われらの神よ。
あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。
あなたは万物を創造し、
あなたのみこころゆえに、万物は存在し、
また創造されたのですから。」(黙示録4章11節)。

(2)18−20節、御子キリストと和解−救済・救いの御業−
 ①「御子はそのからである教会のかしら」(18節)。キリストと教会のいのちの絆。
 ②「御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方」(18節)。御子・かしらの復活、やがて必ず、からだ教会も復活、約束であり保証。
 ③「十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった」(20節)。和解の福音。
「はじめに神」と共に、「しかし神は」。聖書を貫く二本の柱。

[3]「あなたがたも」(コロサイ教会、そして聖望キリスト教会)1章21−23節
 この箇所で、「あなたがた」を4回繰り返し強調。コロサイ教会・聖望キリスト教会が自分自身についてしっかり知るべき点・「己を知る」を明示しています。
(1)21節、過去の実体を忘れない。「かっては」神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった。出エジプト記に見る荒野のイスラエルの民のつぶやき、不平。

(2)22節、「今」現実となっている救いの恵み。神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死・高価な代価によって、私たちをご自分と和解させてくださいました。

(3)22節、神と和解された者として、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせて頂く未来の目標。

(4)23節、今の信仰の戦い。「ただし」、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければならない。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられている、パウロはそれに仕える者。

[4]集中と展開
(1)集中
コロサイ3章11節後半、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」
沖縄伊江島中高生キャンプ、タッチュウの頂上でコロサイ3章11節を読み続ける経験。
視点をどこに定めるかにより、視野が定まる。
キリストご自身に集中し視点として行かされて行く時、私たち各自そして聖望キリスト教会の視野が、主の祈りで祈るように、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と大きく開かれています。

(2)展開
差別の壁のあるところに、キリストにある和解に立つ生活と生涯。それがいかに小さく目立たない歩みであっても、地の塩また世の光として生かされて行くのです。
狭い門を通過したときに、一面・一部でなく、両面・全体・すべての豊かないのちの道。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」
ヨハネ10章10節後半)
 「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」
(ピリピ4章8、9節)。