ルカの福音書身読の手引き・その47
☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告
『弟子たちのほうに向いて』 ルカの福音書10章22−24節
[1]序
今朝11月1日が11月最初の主日礼拝。
1992年の残された2箇月を全体として考えながら、私たちは今朝の主日礼拝に臨んでいます。12月31日の視点に立ち、この2箇月の日々を過ごす思いを新たにするのです。
11月と12月を全体と見通すとき、秋の教会総会でも確認したように、私たちにとり特に宣教の機会と見ることができ、またそのように自覚し備えつつ迎えるべきです。特別な集会という面からだけでも、
11月23日(月)の沖縄福音連盟壮年大会、
29日(日)生け花四人展、
12月3日(木)櫛田先生を迎えての特別集会、
12月5日(土)照屋寛善先生を迎えての第2回首里福音学生センター講演会、そしてクリスマス諸集会。それぞれの集会にこの方を招きたいと祈りつつ備えて行きたいのです。
11月の主日礼拝では、ルカの福音書10章の最後の部分から11章へと読み進めたいと願っています。
11月 1日 ルカ10:22−24 「弟子たちのほうに向いて」
8日 ルカ10:25−37 「あなたも行って同じようにしなさい」 15日 ルカ10:38−42 「その良いほうを」
22日 ルカ11:1−4 「祈るときには」(石川兄代読)
29日 ルカ11:5−13 「天の父が,求める人たちに」
先週、私たちはルカ十章17−21節の箇所を、17−20節(主イエスの弟子たちへの言葉)と21節(主イエスの御父への言葉)に分け味わいました。今朝も主イエスの御父への言葉(22節)と弟子たちへの言葉(23、24節)に分け味わいます.
[2]「わたしの父」(21節)
(1)「子がだれであるかは、父のほかに知るものがありません」。
(2)「また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかには、だれも知るものありません」。
①(1)と(2)の言い方は同じ。
主イエスはご自身を父なる神と同じ位置に置いておられますつまりご自身を神と意識し、そのように教えておられます。聖書はこの点をはっきり伝えています。ヨハネの福音書20章17節参照。
②「子が父を知らせようと心に定めた人たち」とは、弟子たちそしてキリスト者・教会のこと。
その一番の使命は,父なる神を知ること。しかもその立場は、主イエスご自身が「心に定め」てくださった事実に源があるのです。全く一方的な恵みなのです。この神の恵みを無にしないことこそ弟子の道、キリスト者・教会の進むべき道です。
(3)「すべてのものが」
主イエスと父なる神の無比の関係。
主イエスと人間の恵みの関係。それだけではないのです。
主イエスと「すべてのもの」・万物の関係。
基本聖句、
マタイの福音書28章16−20節
ヨハネの福音書1章1−5節
コロサイ人への手紙は、特に万物の統治者としての主イエス。
[3]「弟子たちのほうに向いて」(22、23節)
主イエスは御父に祈られているばかりでなく、弟子たちのほうに向かわれお話しくださるのです。
(1)「あなたがたの見ていること」
(2)「多くの預言者たちと王たち」と「あなたがた」
[4]結び
(1)「あなたがたの見ていること」.「あなたがたの聞いていること」→主イエスご自身.
①主イエスご自身のご自身についての自覚。
②主イエスのご自身についての教え。
③弟子たちの主イエスご自身についての理解。
その中心は、御、御子、御霊なる神.
主イエスと私たち(人間、キリスト者・教会)
主イエスと万物・宇宙、コロサイ3:11参照.
(2)「幸いなもの」(23節)。私とは何か、「幸いなもの」としての自覚。詩篇1篇、8篇。
(3)11と12月、私たちは幸いなものとして、この幸い(「福音」)を家族、友人、知人に伝える。そうした中で、50人の女性の主日礼拝出席のため祈りましょう。また伊江島、伊是名島のために祈りつつ一歩一歩前進させていただきましょう。