『何故単立教会ではいけないか』 その①

★4月からの新年度、幾つかの恵みの報告を受けた中で、私にとって特別なものは、青梅キリスト教会また林桂司牧師からの知らせです。
 「ぶどうの木コイノニア」の正式な発足。あくまでも4つの教会の地域性を徹底的に大切にしながら、同時に一つの教会との側面を実践的に求め続けて行く姿勢に接し、心より敬意を払い感謝します。
 感謝の印として、あの時書いた拙文を、今、ここで書いている思いで送ります。
  以下の短文は、1987年11月10日の日本新約教団牧師会でテープを通し発表したものに基づくものです。奥多摩と沖縄の距離的な制約のため、牧師会に参加できない中で、送られてくるテープにより牧師会の様子を知ることが出来るのは、当時沖縄地区の牧師にとって恵みでした。テープを通しての発表のため、その後の話し合いに参加出来ませんでした。その話し合いの中で、「組織」ということばが、単立連盟の関係では、単立的な組織理解で読まれるのではないかとの意見があったということで、その点を踏まえて説明を加えるように信仰告白委員会からの指示を受けました。
 個々の地域教会の自立、自治ばかりでなく、それと地域を超えた教会の広がりとの関係の在り方(組織を含め)を聖書から聞いて行きたいと願っていたのが当時私たちの現状でした。組織の内容を求めて行く過程で、終始確認されるべき共通の基盤を提示したい、これがこの短文の背後にある願いです。組織の在り方については、聖書に聞き続け、過去の教会の歩みの後をたどり(この面での私たちの知識の限界を痛感していました、今も)、私たちが直面している現実に即して進めるべきす。この場合も積み重ねが必要。
 なお注は次回に。

[1]序 
 各地域教会は元来、本質的に他の地域教会から離れて立つものではない。「何故単立教会ではいけないか」とは、ここでは、「教会は孤立した存在ではない」との理解に基づく表現と受け止めたいのです。(注①)

[2]聖書に見る教会の姿から 
 聖書に見る教会の姿を考える場合、次の3点から考える必要があります。
 第1は、教会が全体として一つの教会として考えられている場合。
 第2は、ある一定の地域に存在する教会。
 第3は、各地域教会が他の地域教会、また教会全体とどのように関係を保持しているか。
  以下において、この3点を考えます。

(1)教会は全体として一つと考えられている場合
①時代を越えて
 イスラエルと新約の教会が一つ神の民として示されている事実は注目に値します。
例えば、ローマ9章から11章において、イスラエルの民と教会の不可分の関係をパウロが主張しているように、教会は時代を越えて存在する一つの群れです(注②)。
 ですから、ガラテヤの手紙において、パウロは教会を神のイスラエルと呼び祈ります。
 「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」(ガラテヤ6:16)

②地域を越えて
 また特定な地域を越えて広がる教会の姿を、聖書の中に私たちは見ます。例えば、パウロは、コリントの教会に対して、
「コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です」(1コリント1:2)と呼び掛けています。
 この意味からは、本来一つである教会がある時代のある地域と言う限られた歴史の現実の中にその姿を現していると見ることが出来ます。
 
(2)一定の地域に存在する教会
 聖書の中で直接見る教会は、一定の地域に存在する具体的な地域教会です。例えば、エルサレム教会とかコリントの教会とか、それぞれの地域に教会が生まれ、成長している姿を聖書に見ます。この場合、注意すべき一つの点は、聖書に見る地域教会、例えば、コリントの教会は、一人の牧師、一つの集会所で集まる地域教会と言う形態を取っていない事実です。複数の指導者、複数の集会場所を持っていたと考えられます。そうした現実が、1章10節以下にみる分裂を産む背景にあったと判断するのが自然です。
 エルサレム教会の場合、使途の働きの最初の部分に記録されている信徒の数(2:41)、
使徒たちが指導者として立てられていたことなど(8:1)から、複数の指導者、複数の集会場所を持っていたことは、まず確かです。

 また家の教会(ローマ16:5、1コリント16:19、コロ4:15、ピレ2)も、こうした広がりを含む地域教会全体の中で位置付けるべきです。聖書に登場する地域教会は、その内部に幾つかの集会を持ちつつ、外から見ると、コリントならコリントの教会としてまとまりを保っていたと考えられます。一定の地域教会に属するそれぞれの集会は、勿論孤立していたのではなく、全体として一つの地域教会として存在しており、そこでは組織的な面でも一つとなっていたと考えられます。 
この点を私たちの課題との関係で言えば、単立教会と言っても、一定の地域教会の一つの集会に当たるもの(集う者数十人の)を指すのか、一定の地域教会そのものを指すのかによって、同じく単立教会といっても、その実態は随分、いや全く違うことになります。
 
次に、一つの都市の範囲をこえて、より広い範囲の一定の地方の中において地域教会の間に密接な交わりが存在している様子が、私たちの関心を引きます。
例えば、「マケドニヤとアカヤとのすべての信者」(1テサロニケ1:7)との表現、小アジヤの七つの教会のまとまり(黙示録2,3章)、「ガラテヤの諸教会」(ガラテヤ1:2)との言い方など。これらいずれの場合も、一定の地方に複数の地域教会が存在し、互いに深い交流を保っていたことを明示しています。
 
(3)一つの地域教会と他の地域教会さらに教会全体との関係
一つの地域教会が、広い範囲の教会と交流を持っている様は、エルサレム教会やアンテオケ教会などに、その代表的な例を見ます。問題は、このような交流が組織的な面での一体性を持っていたのかどうかです。使徒の働き14章23節、15章に見るエルサレム会議、1コリント16章1節などは、地域教会が広い範囲の教会と一体性を持つことには、組織的な側面も含んでいたことを暗示しています(注③)。
 この場合、注意すべき一つのことがあります。一つの地域教会が、広い範囲の地域教会と交流を持つのは、すでに存在している地域教会同士のそれと言うだけでなく、新しい地方や地域に新しい福音の宣教がなされ、そこに新しく誕生し、成長する教会との拘わりが大切になっている点です。福音宣教に励む限り、単立教会といっても、新しく誕生し成長する群れとの関係に直面せざるを得ないわけです。教会組織・制度と宣教活動は不可分のものです(注④)。聖書に見る教会はみな宣教活動の中に生きる教会であり、それぞれの時代の教会に宣教活動に励むようにチャレンジを与えてくれます。 
 以上の例だけを見ても、地域教会は決して孤立した存在でないことは明らかです。

[3]教会の現実の姿から
 次に、以上見てきた教会の本質的な一致を、どのようにして私たちの置かれている状況の中で現していくべきか、今、ここで生かされている教会の現実から、「なぜ単立教会ではいけないのか」の課題を見て行きたいのです。
  
(1)地域教会の自立の大切さ
 どのような場合でも、地域教会は孤立した存在ではない。自らの立場を単立教会と主張する場合でも、自らのみで立っているとは言えないのは明らかです(注⑤)。単立教会も事実としては、他の地域教会と深い交流を保っています(注⑥)。
こうした中でなお単立教会としての歩みが主張される理由の一つは、地域教会の自治、自立の大切さの強調のためです。一つの地域教会として、他からの干渉を受けず、また他に依存することなく自治、自立の歩みをなして行く。地域教会の自治。自立そのものは、どのような教会組織、制度を求めるに当たっても重視されねばない。しかし決して易しい課題ではないことは認める必要があります。実際問題として、単立教会としてのあり方が、地域教会の自治、自立を実現しやすいかどうか直視する必要があります(注⑦)。
  
(2)組織的な課題
①地域教会 
 次に組織的な面について考えたいのます。聖書に見る地域教会に秩序、組織が存在していたことは、使徒の働きの報告(14:23,20:17,28)からも、また牧会書簡からも明らかです(執事、長老、監督など、1テモテ3:8ー12、1テモテ5:17ー22)。私たちの置かれている状況にあっても、地域教会において何等かの秩序、組織を持つことは、単立教会を含めて不可欠です(注⑧)。地域教会において、一切の組織、秩序を否定している例を知りません。

②地域教会相互 
 問題は地域教会を越えた、地域教会相互の秩序、組織と地域教会のそれとの関係についてです。地域教会を越えた、一切の組織を認めないのが単立教会の立場と言えます。しかし単立教会と言えども、実際には他の地域教会と交流を持つ以上、その交流が地域教会内の組織とどのような拘わりを持つかはやはり課題になるはずです。
 地域教会を越える、地域教会相互の間に組織的関係を認める場合には、必然的にその組織と地域教会内の組織の関係が課題になります。
 教会間の一致が組織的一致としてのみ成り立つとは言えないとしても、組織的な側面を無視して良いことにはならない。地域教会の組織を認める以上、地域教会を越える他の地域教会の組織との関係を課題にせざるを得ないわけです。

③組織の内容
 地域教会を越える組織の内容がどのようなものであるのか。この点について、監督制、長老制、会衆制の三つがあると教えられてきました。そのいずれの場合も、地域教会の組織を認めつつ、地域教会を越えた相互の関係を求めている点では一致しています(注⑨)。
 単立教会と言う場合、この三つのいずれでもなく文字通り単立教会であろうする場合と、単立教会の連盟を求めていく場合がありえます。前者の場合は、教会は孤立した存在でないわけですから、組織的にはともかく、実質的にはそのような立場は成り立たないと言えるでしょう。
 単立教会の連盟は、実質は会衆制(自立した教会の連合、連盟)ということになます。この場合、やはり地域教会を越えた相互の関係を求めている点を注目すべきです(注⑩)。

[4]結び 
 以上見て来たことを要約すと、単立教会として存在していると主張しても、実際には地域教会を越えた広がりの中に存在していることを知るのです。特に以下の点が確認される場合そうです。
 ①教会の本来的一致を認めている。
 ②各個教会の組織を認めている
 ③現実には、様々のレベルで、他の地域教会と交流を持っている。さらに他の地域教会と連合など、組織的なつながりを持つ場合は一層そうです。
以上の点が現実と成っている場合、もはや単立教会とは言えません。
 逆に、組織的には単立教会でなくとも、実質的には、単立教会的在り方になっている場合が考えられます。
 例えば、日本新約教団に属する中で、その意識と生活の現実の中で、自己閉鎖的になり、実質的には単立教会として生きる可能性はないでしょうか。
 さらに日本新約教団全体が、一つのそれなりのスケールで単立教会的存在となり、他の地域教会に対しては閉ざされた存在になる可能性、危険性はないだろうか。ここから脱出する道は、自らを公同教会全体の中での一部として自覚し続けることです。
 教会の組織が、教会の在り方を左右する凡てではないことは明らかです。地域教会間の組織は、それが相対的な側面を持つことも認めざるを得ません。しかし、組織的な在り方を聖書に聞き続けようとしないと、他の事々でも、聖書を信仰と生活の唯一の規範としなくなる可能性があり得ます。 
「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信ず。