「なぜ単立教会ではいけないか」その②

注記
注1。
 「なぜ単立教会ではいけないか」との題は、刺激的であす。しかし別に、他者に対する否定的な意味を持つものではないのです。日本新約教団の経験と切り離すことの出来ない理解です。日本新約教団誕生の一つの理由は、教会は単立ではありえないとの自覚にねざします。『これからの方針と幻』(1968年、雨宮隆先生による)の中にも、以下の表現を見ます。「教会相互には、単に連絡や親睦だけでなく、密接な有機的な交わりがあらねばならない、と私たちは信じています。私どもは新約教団として交わりを得ているのは、教会は単立ではありえない、単立では決して存立しないという、福音そのものがもたらした必然的な結果であります」。注意すべきは、このような発言、理解の背景です。宣教師・宣教団体による福音宣教により誕生した、各地の信徒の群れが、言わば単立教会として存在してしいたのです。その現実の中から、意識するとせざるとにかかわらず、教会の在り方を求め、教会は単立ではありえないと考えるようになったのです。
 この道は、キリスト教会中連合に所属する群れそれぞれが、基本的には同じくたどってきた経験だと考えます。例えば、「連盟はあくまでも単立教会の協力機関であり、教団化ないしは宗教法人による包括団体への移行は規約によって許され」ない単立キリスト教会連盟。そのそもそもの発足が、「単立であることに伴いやすい孤立、独善の危険を避け、本来一つであるキリストのからだにつながるものとして、より有効に機能する道を探る」(合同牧師研修会参考資料、1頁)ところにあったと聞くのです。ここには、同じく単立教会としての現実の中から、なおキリストのからだとしての教会が本来一つであるとの福音そのもの伝える指針に聞き、自らの現実を本来あるべき姿へと改革し続け進むとの共通の願い、方向を見ます。
 課題は、「教団化」の表現に明示されています。
教会と教団の区別を英語でどのようにするつもりか、私が終始一貫して繰り返した問い掛けです。勿論英語で、区別を表現できないのです。
 本来存在するのは、教会だけで、教会と区別される教団なるものは、本来的、根源的に存在しないのです。存在しないものを存在するかのように考え、主張するところに、
今日までにいたるまで、日本福音キリスト教会連合・JECAが全体として一つの教会である恵みの事実を認めない根本問題を見ます。

注2。
 新約聖書において、キリスト者・教会が自らの存在を、旧約聖書イスラエルの民と切り離さず理解している事実は、例えば以下の例からも明きかです。ヘブル人への手紙の11章において、旧約聖書に見る信仰の先達の列伝を記した後、
「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです」(11章39,40節)と、旧約の民から新約の民を見て、両者の不可分な関係を明らかにしています。続いて、12章1節では、
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と、新約の民の側から旧約の民を見て、その切り離しえない関係を明らかにしています。
 以上に見る過去との関係だけでなく、未来との生きた関係を持ち、新約の教会は存在しています。例えば、ヨハネ福音書にみる主イエス・キリストご自身の祈りがその事実を指し示しています。
「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです」(17章20,21節)。また、使徒の働きに見るペトロの宣教の言葉からも明らかです。
「なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しなる人々に与えられているからです。」(2章39節)。

注3。
 例えば、コリントにある一地域教会にパウロが手紙を出し得たこと自体が、地域教会が組織的な面を含み広い範囲の教会と関係を保っていたことを示していると考えます。この場合、組織的とは、一つの共同体を公的に代表する人々がおり、その代表機関で共同体全体にかかわる事柄が報告され、検討され、決定され、実行されて行くことを意味します。その代表機関が誰により構成されていたにせよ、パウロはどこに手紙を出せば、コリントの教会に公的に手紙を書いたことになるか承知していたに違いありません。また、コリント教会からの献金としてパウロに託されるものも、地域教会としての意志決定に基づいてなされているわけですから、公的に意思を決定する場が存在していたと見るのが自然です。各地域教会間を公的に結ぶ、使徒としてのパウロの位置と役割が、地域教会の組織と結び着き、一つの地域教会と他の地域教会や教会全体との関係を、組織的なものと判断できます。この場合組織の内容がどのようなものであるかは、第一に大切なことではないのです。大切なことは、組織があり、組織的な交流がなされていた事実です。
組織の在り方は、時代や場所により変化する側面を常に含むわけです。例えば、旧約聖書の時代について見れば、荒野を旅する時代、約束の地に入国直後の土師の時代、サウロ、ダビデ、ソロモンなどの王朝時代それぞれにおいて、イスラエルの組織の内容は異なっていたわけです。しかし、いつの時代でも、神の民が組織的な側面を内に含みつつ歩みを続けている事実を注目すべきです。こうした神の民の歴史全体を背景としながら、新約時代の教会の組織についても肯定的に受け止めるべきです。現代私たちの場合、地域教会を超える組織の存在を認めることが重要です。その内容がどのようなものであるべきかについては、教会の本質を現すことを求めつつ、時代と場所とともに改革され続けて行くのです。

注4。
 地域教会を超える教会組織や制度と宣教活動の有機的な関係を肯定的、積極的に認めるとともに、それらの組織や制度を自己目的とせず、宣教活動のための恵みの手段であることを意識し、活用することによって組織も制度も生かされます。
 この場合、地域教会を超える組織を初めから否定、一定の地域教会内部の組織のみを認めてる場合、一つの危険が生じる可能性があります。それは、ローマ・カトリック教会に代表的な例を見るように、祝福された一つの地域教会の広がりの枠の中に、その地域を超えた教会の働きも組み込まれて行くことです。ローマ・カトリックの例でいえば、自らの組織を通しての働きは、世界中のどこの働きも、ローマ教会の働きの枠として見るわけです。日本の中でも地域教会の組織のみを認める場合も、その一定の教会を通して日本中、あるいは世界中でなさる働きを、その一定の地域教会の組織的枠の中に入れようとすることになる場合が生じ得ます。祝福され、地域をこえて積極的な宣教活動をなしている地域教会の組織的在り方が、ローマ・カトリックのそれと似たものとなる可能性を率直に認めるべきです。価値判断の課題としてではなく、事実判断の課題として、この点を見ていくべきです。

注5。
 例えば、聖書のみに立つとする、一つの単立教会。そこで用いられている聖書そのものが、写本や印刷を通して世々の教会の働きにより継承されて来たわけです。また翻訳について考えても、その背後には想像を超えた教会の歴史の広がりが存在するわけです。

注6。
 一つの地域教会の誕生と成長は、地域を超えた各地の地域教会の祈りと犠牲によるものです。地域教会を構成しているメンバー一人一
人の信仰生活の経過を考えても実に多くの地域教会との具体的な関係ので営まれている現実を見ます。一つの地域教会が決して孤立した存在でないことは明らかです。

注7。
 自立とか自治とかは、他者との関係の中で初めて課題とされるもので、地域教会を超える教会本来の広がりの中で組織的な関係を持ちつつ生きることによって初めて、組織的な自立や自治が成り立ちます。他者との組織的な関係を初めから認めず、地域に根差す側面と地域を超える側面の緊張関係を自らの中に含まない自立とか自治は、十分は意味での自立、自治ではないとの指摘したいのです。

注8。
 秩序を認め大切にしつつも組織を認めない場合でも、組織の存在が成文化されていないだけで、実質的には組織を持っているのです。また、役割を担う人々の名称が異なり、あるいは名称がない場合でも、実質的には同じような責任が考えられ、果たされていることが少なくないと言えます。

注9。
 一定の場所で礼拝をし、そこを中心とする礼拝共同体として歩む群れ(地域教会)の存在そのものは、監督制、長老制、会衆制の違いを超えて認められている事実を否定出来ません。それぞれの組織理解に従い、全体と個々の地域教会の関係がとのように位置付けられているかが、確かに課題です。しかし、ここに見る違いを、根本的なものとのみ見ず、基本的には同じ教会理解に立つそれぞれの特徴と受け止めるべき側面も認めるべきです。

注10。
 単立教会の連盟の方向を、単立に重点を置いて理解するか、連盟に重点を置いて受け止めようとするかは、その理解を左右します。この関連で、無教会においても、無教会全国集会が開催され、真剣な求めがなされている事実は注目すべきです。『十字架の言葉』272号(1987年、9月)参照。