『ビブリカル・聖書的エキメニズムの提唱』 の実例 その1

『ビブリカル・聖書的エキメニズムの提唱』 その1
2008年1月26日
カトリック松が峰教会聖堂

[Ⅰ]序
 今晩は。
 現に今、このように一致共同祈り会に皆様と参加できます恵みを、心より感謝します。
 皆様各自が、どのような経過や成り行きで、今晩ここに出席なさっているのか、その事情を詳しく聞くことができたら、どんなに幸いでしょう。今晩の集いの重さや豊かさが一層明らかに見えてくるに違いありません。
 皆様の声なき声に耳と心を傾けつつ、一つの実例として私の場合をお話します。
宇都宮キリスト集会の坂本姉との出会いが、私がこの集会に出席している契機です。その経緯はこうです。1969年、東京キリスト教短大で、私が最初に授業を担当した新約通論のクラス、そこで坂本姉と出会ったのです。その時20代であった私は、さらに10年前一人の高校生として、偶然と見える摂理の御手に導かれ聖書に出会い、キリスト信仰に導かれていたのです。
 7年前宇都宮キリスト集会が歩みを始めて以来、主日礼拝の宣教テープを沖縄から送り続けてきました。
 こ小さな実例を通して、出席者一人一人が身に担うそれぞれにユニークな背景を想像し、この場に満ちている豊かな多様性をしっかりと確認したいのです。
 そして同時に、これら多様な背景を持つ私たちは、決してばらばらではない。私たちを根底から支え一致をもたらす固い絆があリます。そうです。聖書です。
 その聖書について、二つの基本的な事実を確認したいのです。
 
[2]聖書はすべて
 先ほど読んで頂いた、Ⅱテモテ3章14−17節では、聖書自身が聖書の特徴、またその有効性について明言しています。
それぞれの歴史的背景の中で多様な人間の著者により書かれた聖書(ヘブル1章1節。)しかし同時に聖書はすべて「神の霊の導きの下に書かれ」た(3章16節)神のことばです。
神の霊・聖霊は、聖書記者を導き書き表したように、聖書を読む私たちの心の内にも働きかけ、それぞれの生涯の歩みの中で多様な経過を経てキリストを信じる信仰告白へと導いてくださったのです。(Ⅰコリント12章3節)。
さらにキリスト信仰に生き抜くため、聖書は私たちを整え続けてくださいます(3章16,17節)。全生活・生涯において、道の光また歩みを照らす灯火(詩篇119篇105節)なのです。
 新約聖書最初のマタイの福音書、その1章1節には、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト系図」と記されています。
 主イエスと私たちの間に、聖書を読み続けてきた2千年の教会の歩みが存在します。しかしそれだけではありません。主イエスからダビデの間に千年、ダビデからアブラハムの間にも千年。ですからアブラハムから主イエスまでの2千年を、少なくも聖書は内包しています。
 そうです。私たちが今聖書に立つと言うとき、少なくとも4千年の実に豊かな歴史に私たちは根ざすのです。この歴史的センスが私たちを結び一つとする上で大切です。

[3]宇都宮の教会
たとえばコリント教会と呼ばれているのは、普段意味するように,特定の地域にある特定の一つの教派の教会を指すのではない。コリントには、複数の指導者と複数の集会が持たれていたと考えられます。それら複数の教会や集会を全体として、一つのコリント教会とコリント以外の外部から呼ばれ、また内部でも同じ意識があったのです。
 背景をことにする諸教会が 宇都宮の教会としてこのように集っている姿こそ、コリントの教会と対応する同じ立場です。諸教会の多様性が十分に尊重され、同時に宇都宮の教会として統一性も体現しているわけです。

[4]結び
主イエスは、ご自身のように私たちがなるために、私たちと同じように真の人となられた、真の神です。
 聖霊ご自身が聖書を用いて、キリスト信仰へ道いてくださる。そうです。創造者なる神が、本来意図された人間・私の回復です。人間らしい人間、私らしい私への道を歩だし、歩み続けるのです。ペトロの「ただの人間」(使徒言行録10章26節)またパウロの「同じ人間」(使徒言行録14章15節)との意識と宣言。これこそ聖書に聴き従い、主イエスを信じ仰ぐ私たちも持つべき意識であり、言動の原点ではないでしょうか。
 来年キリスト教一致共同祈り会へ向け、忍耐と希望をもって(ロ−マ8章25節)前進。