「Ⅰコリント1:2をメガネに、ちいろば聖書集会を見れば」 宮村武夫

「Ⅰコリント1:2をメガネに、ちいろば聖書集会を見れば」
宮村武夫

 「コリントにある神の教会・エクレシアへ。すなわち、キリスト・イエスにあって聖められ、招かれた聖徒たちへ、また、至るところで彼らの、またわれらの主にいますイエス・キリストを呼ぶすべての人々へ」
(Ⅰコリント1:2前田護朗訳)

(1)「コリントにある神の教会」、「コリントにある神の集会・エクレシア」
 ちいろば聖書集会は、その名称に地理を示す表現を用いていません。しかし「青梅」と地理的表現を含むことを前提としていることは明らかです。つまり、青梅にあるちいろば聖書集会と意識、その意味を含めって、名乗っているわけです。
 大切な課題は、どのような事実で「青梅にある」と自覚しているかです。
 「コリントにある神の教会」、「コリントにある神の集会」と言う場合は、当時の世界的大都市コリントには、1章13節に見る指導者との関係を持つ幾つかの集会があったと推察されます。そうした複数の集会を、外部から見ると全体として一つのコリントの教会と呼ぶことができたのです。その内部の集会は、それぞれ多様性を持ちながら、しかも一つのコリント教会として意識を持ち、外部からもそう見られたのです。その恵みの事実を忘れて、自分のグループのみを絶対視が、1章11節以下で問題とあると指摘です。
 ちいろば聖書集会の場合も同じです。青梅にある幾つかの集会にそれぞれ異なる背景歴史があり特徴があります。それを無視したり、軽視して、自分たちだけが存在すると見たり、主張してはならないのです。

(2)「至る所で呼び求めているすべての人々とともに」、「至るところで彼らの、またわれらの主にいますイエス・キリストの名を呼ぶすべての人々へ」
 そうです。単にコリントだけの話ではないのです。アカヤ州にある教会の一部として、いや至る所・全世界にある教会の一部としてコリントにある教会なのです。
 ちいろば聖書集会の場合も全く同じです。青梅ばかりでなく、西多摩の、東京の、アジアの、そして世界至る所にある教会・集会とつらなる。そうです、「聖なる公同の教会」と連なる、ちいろば聖書集会なのです。
 日を重ね、年を重ねる歩みをしながら、まずは1コリント1:2をメガネとして、ちいろば聖書集会を見て、その小さな集いの中に注がれている、豊かな恵みを見い出し喜びに満たされつつ、2018年の歩みを続けていくのです。苦悩と喜びの両立をしっかりと身に受けながら、一歩一歩と導かれながら。