日本福音主義神学校協議会総会シンポジューム発題 『神学校の地域性について』

日本福音主義神学校協議会総会シンポジューム発題
『神学校の地域性について』
   2002年10月7日(月)
   東京聖書学院にて 
   宮 村 武 夫 
     (沖縄聖書神学校)

[1]序

(1)「始めは小さく、計画は大きく」(A.シュラッター)。

(2)聖書に見る実例、たとえばパウロの場合。伝達は、モデル・模範を通して。
語り書いたことは、実行。実行しないことは、語り書かない。

(3)金がなくとも出来、人に迷惑にならないことを。

[2]地方ではなく、地域 。
(1)地方・中央メンタリティーの非聖書性。
①地方は、中央に対して。

②視点の確立、沖縄離島・伊江島の視点。個人的な経験を通して。

 拙稿、「聖書に学ぶ地理的センス」(『ECAホォーラム』2号、1992年)

 下川友也、「『伊江島をパトモスと見て』から」(『校報』65号、1997年)

 拙稿、Iejima Island-My ゛Patmps″-(Japan Update,1997)

 拙稿、「こういうわけで、私たちも」、『首里福音』816号、2002年9月1日

 宮崎清孝・上野直樹、『視点』(東京大学出版会、1985年)

使徒1章8節、「地の果て」、ローマ。

 拙稿、「復活、聖霊、教会」(『クリスチャン新聞』、1984年3月26日号)

(2)地域性の根底としての創造(論)、受肉(論)。

①実例、Ⅰヨハネに見る論敵(グノーシス的思考)に対して。
イ。創造論と救済論のあるべき関係。

ロ。主イエス受肉聖霊ご自身。
拙稿、「Ⅰヨハネに見る交わり」(『神学のひろば』、日本福音キリスト教会連合全国    神学委員会、2002年)

②時と場所。

詩篇31篇15節前半、鍵の聖句、「私の時は、御手の中にあります」。

「時は金なり」の真意。

③地域にあって、継続と継承。
エレミヤ25章3節、参照ヘブル1章1節、一度にすべてでなく。

始めたことは続ける、続けないことは始めない。

[3]沖縄聖書神学校、これまでとこれから(ケース・スタディーとして) 。
(1)これまで
①1974年、夜間二年、「沖縄信徒聖書学校」として発足。

②1978年、昼間四年、「沖縄聖書神学校」の開始

③現在沖縄聖書学園として。
沖縄信徒聖書学校
週二回、二年間、聖書全体の味読。

沖縄信徒伝道者学校
週一回、二年間、徹底的に個人指導と生活実践、分を弁え、分を果たすため。

沖縄聖書神学校
沖縄で聖書を、聖書で沖縄を、そしてどこえでも。

(2)これから
①沖縄の全高校のため祈りのNWの確立と活用。
イ。個人的経験から。

ロ。ホーム・ペイジの活用。

ハ。まず10年、やっばり30年は、45年では。
『開成キリスト者』21号、

『開成キリスト者』12号
吉枝隆邦、「高校生伝道の全国展開を願って」(『hi-b.A.かわらばん』94、2001年       

②沖縄8大学のカリキュラムの把握と聖書による理解、洞察。

③地域の大学の神学部としての自覚
イ。個人的経験、HDS,上智大学進学部の場合

ロ。意識は、予算が無くとも持てる。

                                地域④地域に根差し、地域を越える
拙稿、「地域を越える教会」(『キリスト新聞』、2000年)

[4]結び
私たちが直面している課題に真に対処するためには、より根底的な事実の確認が必要。その一例として、以下のことがらについて確認したい。
(1)「神学」とは。
沖縄で聖書を、聖書で沖縄を。
拙稿、「保線夫として」(『世界宣教の現状と展望-東京キリスト教学園2001記念論文集』、2002年)

(2)「神学校」とは。
地域の大学の神学部としての自覚を持つ場で、いのちのやり取り。

(3)「祈り」とは。
①祈りとは、主なる神の御心を知り、御心を行ない、御心を伝える営み。

②神学校に即して言えば、その過程で、教団・教派の都合、文部科学省・国家の意向、自己の願望(いわゆる超教派神学校と自称する場合の落とし穴)からの解き放ちを経験する必要。

③自分を捨て、自分の十字架を負い、主イエスに従う道(マタイ16章24節)、恵みの先行と恵みへの応答(Ⅰコリント15章10節)。

聖書に学ぶ地理的センス

聖書に学ぶ地理的センス

クリスチャントゥデイに対する日本基督教団議長の声明やキリスト新聞とクリスチャン新聞が手を組むようにして、」クリスチャントゥデイを特に内部告発なるものを用いての報道が、クリスチャントゥデイに対し取材(と言っても対象は、私を入れて3名)を一切せずに流されいます。
 第一3名だけで、どうやってクリスチャントゥデイの働きを継続できるのか、善意からの心配も当然です。

 私自身ついて言えば、今までの歩みにおいても挫折はしばしば。後ろからj銃弾を銃弾あびる修羅場を通過あびるしててきました。そうした中で、主は挫折の中から、なお弱き者を導き続けくださっています。
 年来の親しき友人牧師が、「宮村先生、転んでもただ起きない」と表現する恵みの事態が、この度も生じようとしています。
 沖縄時代願い提唱し挫折したかに見えた、聖書に学ぶ地理的センス。今、クリスチャントゥデイの今後の歩みにおいて、地域報道重視の祈りの根拠になりつつあります。
 お金や組織がなければできないこと、確かにあります。しかし同時に、お金や組織がなくともできることもあります。クリスチャントゥデイにおいて、地域に根差し、地域を越える記事が掲載さるる道が開かれるようお祈り頂ければうれしいです。沖縄時代、以下のように書きました。

★聖書に学ぶ地理的センス
日本福音キリスト教会連合の交わりの中でー
[1]序.
 新しい主にある交わり,直接には沖縄地区にある六つの教会の一つに属し生かされている中から,小さなご報告をいたします.
 聖書が時,時間,歴史を大切にしていることは明らかです.ですから聖書を読みつつ生き,生活・生涯を通して聖書を読む恵みを与えられている私たちが歴史的(時,時間)的センスを身に着けて行くのは自然なことです.そして歴史的センスと言うとき,時や時代と共に,場所や地理的センスを当然含みます.
 地理的センスにこだわるのは,個人的な経験とも関係するかもしれません.最初に仕えることを許された教会は関東平野の北西の端,次の教会は東京の西の端に所在.そして首里福音教会.沖縄は日本の南の端だと位置ずけられます(首里福音教会の講壇中央にある十字架の下にある地球儀はそんなこと少しも示していませんが).

[2]聖書に見る地理的センス,神のみ旨・計画における「島々」. 沖縄の諸教会にとって,離島伝道は教会のあり方そのものに深くかかわると自覚し,家庭集会の一つではイザヤ書を読み進めながら離島の一つ伊江島宣教のため祈り続けています.離島伝道に目を据えて見通す限り,沖縄宣教は戦後後退しています.
(1)聖書に見る,「島々」.
 イザヤ書後半に繰り返し言及される,島々.
 イザヤ42章10,12節など,メシヤ預言の中で「島々」について言及している意味.
 初代教会の福音宣教,教会形成における,「島々」の位置.
☆クレテ島.テトスの手紙1章5節(一つの島に複数の教会,その一致と協力),1章12節(島の歴史文化の徹底した学び),3章12節から15節(人と手紙による生き生きとした交流).
キプロス島使徒の働き11章19,20,21節(海を越え,文化人種の壁を越える福音の広がり,国外宣教の原点).
 
(2)教会の歴史における,島々の役割.
☆中世ヨーロッパ宣教におけるアイスランドの役割.
カトリック教会の沖縄宣教.まず奄美大島,そして沖縄へ(安齊伸著,『南島におけるキリスト教の受容』,第一書房).
 島国日本などとはは,今日ほとんど言われないし,その意識も薄いのではないか.これはやはり危険なことではないでしょうか.

[3]ヨハネの黙示録に見る視点.
 聖書に見る「島」と言えば,ヨハネが「神のことばとあかしとのゆえに」(ヨハネの黙示1章9節),流刑の地として礼拝の生活をおくったパトモスを見逃すことができません.
(1)南北約16キロ,東西9キロのパトモスにあって,ヨハネは,主イエス・キリストの主権(参照1:8,21:6,22:13参照)について,徹底的に教えられます.

(2)「御霊に感じ」
 ヨハネ聖霊ご自身の導きにより,パトモスにいて小アジアの七つの教会それぞれの個性と戦いを見分け,同時に一つの地域にある七つの教会を全体として一つの教会のように見,ヨハネはそれぞれの教会に手紙を書くのです.
 しかしそれだけではありません.「御霊に感じ」て,天からすべてを見る視点と視野を与えられます(黙示録4:1,2参照).
 さらにヨハネ聖霊ご自身の導きにより,荒野の教会の姿,つまり戦闘の教会のあり方を悟り(黙示録17:3以下参照),同時に勝利の教会についての洞察します(黙示録21:10以下参照). 聖霊ご自身の導かれ,ヨハネは主イエス・キリストについて徹底した信仰の告白へ導かれ,キリストのからだである教会の豊かさについて理解を与えられます.
 
私たちも,基本的に同じ道を進むべきです.日本福音キリスト教会連合の設立の段階で確認された「カリスマ問題に関する合意事項」は,私たちが聖霊ご自身に対して消極的態度を持つことを意味しない.聖書に従い聖霊ご自身についてどれ程強調しても強調し過ぎることはないのです.
しかしそれが,パウロが大事なこととする新しい創造(ガラテヤ6:15参照)の視座,つまり創造論,キリスト論,教会論などとの有機的なそして雄大なかかわりからなされていないなら,聖書の教えとは似て否なるものとなる危険があります.

[4]日本福音キリスト教会連合の交わりの中で,沖縄から.
 日本福音キリスト教会連合の歩みにおいて,鍵の一つは地区と地区の生き生きとした交流にあると確信します.それぞれ自立した地域教会がその地域全体としては一つの教会として見られるような真の交わりを保ちつつ,他のそうした地区と交流を持つ.そんな願いを心に持ちながら一つの提唱をさせていただきます.
(1)過去の恵みを覚えて.
 旧日本新約教団で持たれた沖縄聖会(1984年5月,1985年5月,1986年5月)が本土と沖縄の双方の教会にとりいかに祝福に満ちたものであったかますます明らかになっています. 過去5年の協力伝道,本土の教会から講師を招き,6つの姉妹教会を連続して訪問,特別集会.沖縄の6つの教会ばかりでなく,講師を送ってくださった教会にとっても祝福.

(2).将来の導きを待ち望みつつ.
 今,過去の恵みを新たに思い起こし,主にあって将来を展望する必要を感じます.
 首都圏の地域と沖縄地区の交わり.30名の方々を首都圏から沖縄地区の宣教大会に.コースを二つに分ける可能性,
(イ)沖縄の歴史,宗教,地理から世界宣教について考える

(ロ)沖縄の自然から環境問題,農業問題,障害児について考える 北海道地区と沖縄地区の交わり,二コース,30名の方々.北海道と沖縄から,日本の宣教と海外宣教を考える
(イ)北海道における宣教と教会形成から,北方圏での宣教と教会形成を考える.特に,センド国際宣教団のアラスカ伝道(セントラル・アラスカ宣教団の50年以上の働き)の歴史から学び,将来の協力を考える.例えば,エスキモーの方々への宣教.

(ロ)沖縄における宣教と教会形成から,南方圏での宣教と教会形成を考える.特にリーベンツェラーの南方での長い伝道の歴史,センドのフィリッピン,台湾での伝道の歴史から学び,将来の協力を考える.例えば,各宣教団を通して形成された教会のアジア教会会議(将来は世界教会会議への発展を目指し)の形成. 
 四国地区から,沖縄地区宣教大会に30名の方々.
 両地区での宣教と教会形成,地域から地域への宣教活動について.
(イ)四国地域から中国地域への宣教の広がりの歴史と将来の展望について学ぶコース.

(ロ)沖縄地域から九州の他の地域への宣教の広がりについて.その基本的の姿勢と具体的な方法を考える.
 最後に使徒の働き1章8節を(クリスチャン新聞,1989年3月26日号,「復活,聖霊,教会」を参照くだされば幸いです).

4月30日(月)ヨハネ13章の味い、その20 4月最後の日、積み残しの整理を一歩でも進める

4月30日(月)ヨハネ13章の味い、その20
4月最後の日、積み残しの整理を一歩でも進める

https://youtu.be/FmlsIlhHHxY
    ヨハネ13:21

『死者の中からのキリストの復活−その恵みの深さと広さ−』 Ⅱテモテ2章8−13節

『死者の中からのキリストの復活−その恵みの深さと広さ−』
Ⅱテモテ2章8−13節
2012年4月24日
宇都宮キリスト集会 イースター礼拝

[1]序
(1)主イエスの復活とパウロの生涯、使徒の働き9章1−9節。
  ロ−マ1章1−4節、ローマ人への手紙全体の基盤。

(2)ダマスコ途上で、復活のイエスとの出会い・事実。
 パウロの自覚は、自分は「使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです」(Ⅰコリント15章9節)。
 そのような自分に対する圧倒的な神の恵み。それこそ、復活の主イエスとの出会いであり、福音の宣教のための召し出し。ガラテヤ1章11−17節。応答するパウロの生活・生涯。
「ところが、神の恵みによって、私はいもの私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(Ⅰコリント15章10節)。
 
①このような主イエスの復活の恵みの現実の中から、ローマ人への手紙は書かれたのです。ですから、手紙のはじめに、主イエスの復活の事実がすべの基盤であると明示。
「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、
 大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリスト」(4節)

②復活の恵みと祈り
 8章14−17節 A 聖霊ご自身と祈り
8章18−25節 B 祈りと被造物全体
8章26―27節 A 聖霊ご自身と祈り

[2]Ⅱテモテ2章8−13節に見る、
死者の中からのキリストの復活−その恵みの深さ

エペソ6章18節、「どんなときにも御霊によって祈りなさい」、命令。
(1)8章26,27節、御霊の助け、執り成し、約束
 聖書における命令と約束。命令と切り離せない、約束が与えられている。
恵み・約束を無駄にしない、Ⅰコリント15章10節,Ⅱコリント6章1節。

(2)聖霊ご自身と祈り、8章14−17節。
   その中心は、「子」としての恵みの立場。
①14節、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

②15節後半、「子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」

③16節、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」

[3]Ⅰコリント15章に見る、
死者の中からのキリストの復活−その恵みの広さ−
(1)沖縄にあって日本、日本にあって世界、地球にあって宇宙。

(2)「被造物」、万物―タ・パンター
  創世記1章1節、「初めに、神が天と地を創造した。」
  黙示録21章1節、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
  主の祈り:祈りの基盤、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」
  
被造物への深い洞察
①19節、「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。」
 
②20節、「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望があるからです。」

③21節、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」

④22節、「私たちは、被造物全体が今にいたるまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」

★23節、私たち自身も「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」

〔4〕集中と展開
(1)集中
   いつも落ち着き、初めは小さく計画は大きく、主の業を継続する生活・生涯。
 Ⅰコリント15章58節
 
(2)展開
①からだが購われることと新天新地、切り離せない。

新約聖書終末論の中心三点、すでに、いまだ、やがてかならず

③8章25節 生活・生涯の基調 「忍耐と希望」

2018年4月から5月  「喜びカタツムリの歩み、なお一歩」

2018年4月から5月
 「喜びカタツムリの歩み、なお一歩」

2009年12月脳梗塞発症・3カ月入院は、私たち二人の歩みにとって、確かに一つの基点で、ビフォー、アフターと、それ以前と以後の連続性ばかりでなく、転機・進展をも確認させてくれる恵みの経験でした。
 それからの歩みを重ね、今、2018年4月から5月を迎えながら、クリスチャントゥデイ、特に編集会議の在り方とその中での私なりの日常生活の営みの整えをめぐり、「なお一歩」と、一つの大切な節目を通過させて頂いていると自覚します。
 5月からの歩みの備えとして、あの時に記した、「脳梗塞発症・100日の入院を基点に二つの広がり」を再読、回顧と展望の時をと念じています、感謝。

脳梗塞発症・100日の入院を基点に二つの広がり」
 「2009年12月18日(金)、脳梗塞のため那覇市立病院に入院、明けて1月13日(水)リハビリに集中するため大浜第一病院へ移ってから100日の入院生活の日々、多くの方々の祈りと好意に支えられ、4月4日のイースターを前に、4月2日(金)退院できました。
この発症・入院の経験は、1963年から1967年のアメリカ・ニューイングランドへの留学に匹敵する深い学びのとき、しかも短期集中で楽しくて、楽しくて仕方がない毎日でした。

 12月18日(金)夕方、ライフセンター那覇書店の仕事から帰ってきた妻君代は、様子が普通ではないのに気づき、一晩寝れば大丈夫と威張っていた私を、脅したり、賺したりして病院へ連れて行ってくれました。君代の母親は脳梗塞だったのです。
 病院では、直ちに治療開始。しかし、一晩経過した時点で、左半身不随、丸太となってベッドに横たわっていました。
 その時、「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました」(詩篇119・67)との詩人の告白は、私の告白ともなりました。主の導きで大浜第一病院に移った後、日本クリスチャン・カレッヂで3年先輩であった宮谷宣史先生の新しい訳で、アウグスティヌスの『告白録』(教文館 上・1993、下・2007)をそろそろと読み始めました。
またそのどん底の状態の中で、からだをめぐる思索、医療従事者の方々との出会い、医療のあり方についての考察など貴重な経験の第一歩を踏み出せました。
 病院では、一日3時間のリハビリの連続。日々、楽しみながらリハビリを続ける中で、私のうちに一つの事実が生じました。からだの奥から笑いが満ち溢れてくるのです。箸がころんでも笑う年頃の娘のあり様で、夜となく昼となく「ウフフ、ウフフ」なのです。脳梗塞のため、どこか緩んでしまったのではないかと君代が訝るほどでした。
 そんな日々の中で、詩篇126編その1〜3節を読んでいるときに、「これだ!」と心に受けとめました。
「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
『主は彼らのために大いなることをなされた。』
主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。」
リハビリの一つは、言語治療です。治療者の熱心な指導のもと舌の動きに集中しながら発声訓練。「舌、舌」と生涯でこれ程「舌」を意識した日々はありません。「私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」とは文字通り私の実感なのです。
 誤解を恐れないで言えば、脳梗塞後リハビリの経験は、小さな小さなスケ−ルでのバビロン捕囚からの解放であり、解き放ちの喜びを自らの存在の基底に覚えるのです。
 そうした日々の中で、二つの恵みの波紋が心のなかでの広がりました

(1)埼玉在住の文芸評論家・松本鶴雄
1960年代後半埼玉県寄居で出会った文芸評論家松本鶴雄さんと、入院中直接連絡が取れたのです。2009年11月に出版した、著作集Ⅰ『愛の業としての説教』(ヨベル)を送付していたところ、松本さんから電話、さらに丁寧な読書感想の便りを受け取りました。
電話では時空を越えて話が弾み、その後、交流の絆を体現する、松本さんの著書・『神の懲役人─椎名麟三 文学と思想』(菁柿堂)が遠く沖縄まで送付されて来ました。
私は応答として、松本さんを中心とする同人誌『修羅』に参加の手続きを取りました。
50年にわたり説教を続け、神学論文やエッセイなどの文学類型で書き発表してきました。しかし今回入院中に経験し思索した内容を表現するには、それに相応しい別の表現方法や場があるのではないか考え始めていたところでした。長い年月絶えることのなかった、松本さんとの交流に後押しされて、『修羅』61号に「アンヨをもって、テテもって」を投稿、71歳にして新しい小さな一歩です。

(2)人間・私・からだの三位一体的支え
脳梗塞発症後100日余の入院中、吉嶺作業療法士による入魂のリハビリの積み重ねで左手の指一本が発症後初めて1ミリ動いた瞬間、自分はからだ・からだとしての私を徹底的に自覚したのです。
同時に、からだ・人間・私は、まさに人格的存在。そして永遠の愛の交わりである三位一体なる神こそ、人格的存在人間・私の根源的な支えと確信は一段と深まりました。
「存在の喜び」(宮村武夫著作7『存在の喜び』)とは、徹頭徹尾からだである人格的存在としての人間・私に注がれ溢れる喜び。この「存在の喜び」を、不自由な左手・指や杖を用いて喜びカタツムリの歩みをなしながら、しみじみ味わい知りました。
そして喜びの応答です。永遠の愛の交わり・三位一体なる神こそ、まさに人格的存在である人間・私の根拠である事実を、ヨハネ福音書からの説教・宣教において展開できればと願い、入院中の読書会また退院直後の主日礼拝で小さい一歩を踏み出しました。
さらには、医療の現場や医学教育における、三位一体論的根拠付けを展開できないか思い巡らしを始めたのです。
たしかに自動車修理工場における故障車と総合病院における患者の間には、類似関係があります。故障車の各部品を冷静に客観的に検討しながら車全体の修理がなされ正常な車として回復する。病院における患者に対しても、同じく冷静さと客観性が求められるのは確かです。
 しかし同時に、自動車修理工場における故障車と総合病院における患者の間には、明確な区別性も、当然ながら認める必要が絶対あります。
ところが現実には、この当然なこと、絶対必要なことが軽視されたり、見失われたりしていないか。要の一つは、医学教育のあり方であり、この点は、私なりに見聞きし関わって来た神学教育に対する私の不安と不満に相通ずると判断しています。」

★制約の中です。
しかし何もできないわけではありません。
様々な支えを見に受けながら、読みに読み、書きに書くと心を定めています。そうです。鍵は日常生活です。杖を突き、後遺症の影響、あの薬この薬を服用しながらの日常生活です、感謝。

『成長して、愛のうちに』 エペソ4章15、16節                  2012年年3月12日(日)                           シオンの群教会 

『成長して、愛のうちに』
エペソ4章15、16節
                 2012年年3月12日(日)
                          シオンの群教会 主日礼拝
[1]序 
 主の御名を讃美します。
 今朝、このようにシオンの群教会の主日礼拝に出席でき、さらに宣教の機会を与えられ、心より感謝いたします。背後にある導きの御手を覚えます。
 エペソ4章15,16節をもう一度お読みいたします。
「4:15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

[2]成長する教会
エペソ教会は、そうですシオンの群教会は、群れを形成するひとりひとりが整えられ奉仕の働きをしながらキリストのからだとして「建てあげる」と建物に関係する用語を用い恵みの事実をパウロは表現しています。
同時に、15,16節で繰り返し「成長」に焦点を会わせ、教会の姿を明らかにしています。
しかし教会の成長についてパウロは教えるだけでなく、3章14−21節に見るように祈っています。祈りこそです。教えと祈りは不可分です。
 パウロの祈り(3章16−21節)に、私たちも今心を合わせましょう。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、
御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」

[ 3 ]「愛のうちに」
1.キリストの愛、個人的人格的
「キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられた」(4章7節)。ひとりひとりがそれぞれ与えられた力量にふさわしく働くのです。誰ひとり何もできない人はいない、何の仕事もないという人はいないのです。必ず役割とそれを果たす力を備えられているのです。

2.キリストの愛の共同体として
キリストの愛に励まされた個々人の営みが大切です。
しかも、それぞれがばらばらに働くのではなく、「しっかりと組み合わされ、結び合わされ」て成長して行くのです。こうして教会はキリストの愛のうちに建てあげられるのです。。

[4]集中と展開
(1)集中 成長についての聖書の励まし
 コロサイ2章19節
「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」

Ⅰコリント3章6節、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神。」

(2) 展開 成長の事実による励まし、こども、いのりの年配者、いつでもどこでも
①子供の存在
主イエスの幼児期の成長に見るように、親の目ばかりでなく誰にでも認められる。
ルカ2章40節「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」
 
②老年期の成長、本人を含めて多くの人々に認めにくい、しかし確かに成長なのです。
イザヤ40章30,31節。
「 若者も疲れ、たゆみ、
 若い男もつまずき倒れる。
しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
まさに「【主】を待ち望む」成長し続ける老年の姿です(ルカ2章25節―38節)。
Ⅱコリント4章16節「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」。そうです、勇気を失わないのです。

③いつでも、どこでも成長。あらゆる点において成長し
聖書のメガネを通し神の成長の恵みの事実を認め感謝に満たされ、ピリピ3章13,14節の道を地道に進むのです。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

安ご夫妻、共同住宅定礎式 2005年 5月28日(土) 『成長して、愛のうちに建てられる』 エペソ4章15、16節

安ご夫妻、共同住宅定礎式
2005年 5月28日(土)
『成長して、愛のうちに建てられる』
エペソ4章15、16節
[1]序
(1)祝い、めでたいな
私どもは、今ここに安ご夫妻の共同住宅定礎式のために集っています。この集いは、喜びのときであり、また心からの祝いのときです。
今日の機会は、人と人の絆(きずな)が一段と堅くされるときなのです。では、人の絆とはなんでしょうか。聖書は私たちに語りかけてくれます。
「 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい 」(ローマ12章15節)。
喜ぶ者といっしょに、その人の喜びを我がことのように喜ぶのです。しかしそればかりではありません。たとえ人生の旅路において泣くようなとき、ーそして少なからずそのような経験を私たちは経験するのですーそのときには、泣く者の涙が私の涙と溶け合うように泣くのです。これこそが人の絆だと聖書は教えています。ですから、この定礎式は、確かに人と人の絆を堅くする恵みのときなのです。

(2)職人衆のために
定礎式のもう一つの目的は、実際の建築の仕事を進めてくださる、ご一同の上に祝福と上よりの助けをお祈りするためです。
聖書は、「手の業」について、これを大切なものとしています。どのような意味で、「手の業」を重んじているかと言えば、「手の業」は、「心の業」と教えている、この一点です。

[2]家を建てる
家を建てるに当たり、普通三者の調和、信頼関係が大切だと考えられます。そうです。「主」・所有者、設計者、現場の職人衆の三者です。今日は時間の関係で、職人衆に的をしぼりましょう。
(1)「主」・所有者

(2)設計者

(3)現場の職人衆
聖書は、「建てる者の働き」と言い切ります。手の業は、心の業。また心の業は、必ず手の業として現れる、その以外の道はないのです。ですから、「建てる者の働き」を聖書は大切にしています。人間の努力や、企てや助言など一切(いっさい)の積み重ねが必要なのです。建築に携わるひとりひとりが職責を忠実に果たすということは、実に称賛に値する美徳なのです。

[3]「成長して、愛のうちに」
ところで、先程お読みし、お手元のプログラムに記されてあります、聖書のエペソ4章15、16節には、普通家を建てる際には、聞き馴れない、「成長して、愛のうちに建てられる」とあります。少しの時間ではありますが、「成長して」と「愛のうちに」について意を注ぎたいのです。
(1)「成長して」

(2)「愛のうちに」
家族の営みのために、家は本来建てられるのです。家族あっての家です。どんな立派な建物でも、空き家であれば話になりません。美しい立派な家で、家族のいがみ合いが続くなら、何とも寂しい限りです。ですから、立派な家にそれに相応しい家庭の営みがなされるように心から祈るのです。

[4]結び
(1)職人衆ご一同のために祈りましょう。その貴い手の業、いや心の業が忍耐をもって進められるように祈ります。東京の下町出身の私。職人の方々への尊敬を両親は小さいころから教えてくれました。ですから、今職人衆のため祈るのは、小さくない喜びなのです。

(2)最後に、聖書では、もう一人の「主」を指し示しています。
「主が家を建てるのでなければ、
建てる者の働きはむなしい。」

「見よ。子どもたちは主の賜物、
胎の実は報酬である」(聖書 しへん127:1、3)。