日本福音主義神学校協議会総会シンポジューム発題 『神学校の地域性について』

日本福音主義神学校協議会総会シンポジューム発題
『神学校の地域性について』
   2002年10月7日(月)
   東京聖書学院にて 
   宮 村 武 夫 
     (沖縄聖書神学校)

[1]序

(1)「始めは小さく、計画は大きく」(A.シュラッター)。

(2)聖書に見る実例、たとえばパウロの場合。伝達は、モデル・模範を通して。
語り書いたことは、実行。実行しないことは、語り書かない。

(3)金がなくとも出来、人に迷惑にならないことを。

[2]地方ではなく、地域 。
(1)地方・中央メンタリティーの非聖書性。
①地方は、中央に対して。

②視点の確立、沖縄離島・伊江島の視点。個人的な経験を通して。

 拙稿、「聖書に学ぶ地理的センス」(『ECAホォーラム』2号、1992年)

 下川友也、「『伊江島をパトモスと見て』から」(『校報』65号、1997年)

 拙稿、Iejima Island-My ゛Patmps″-(Japan Update,1997)

 拙稿、「こういうわけで、私たちも」、『首里福音』816号、2002年9月1日

 宮崎清孝・上野直樹、『視点』(東京大学出版会、1985年)

使徒1章8節、「地の果て」、ローマ。

 拙稿、「復活、聖霊、教会」(『クリスチャン新聞』、1984年3月26日号)

(2)地域性の根底としての創造(論)、受肉(論)。

①実例、Ⅰヨハネに見る論敵(グノーシス的思考)に対して。
イ。創造論と救済論のあるべき関係。

ロ。主イエス受肉聖霊ご自身。
拙稿、「Ⅰヨハネに見る交わり」(『神学のひろば』、日本福音キリスト教会連合全国    神学委員会、2002年)

②時と場所。

詩篇31篇15節前半、鍵の聖句、「私の時は、御手の中にあります」。

「時は金なり」の真意。

③地域にあって、継続と継承。
エレミヤ25章3節、参照ヘブル1章1節、一度にすべてでなく。

始めたことは続ける、続けないことは始めない。

[3]沖縄聖書神学校、これまでとこれから(ケース・スタディーとして) 。
(1)これまで
①1974年、夜間二年、「沖縄信徒聖書学校」として発足。

②1978年、昼間四年、「沖縄聖書神学校」の開始

③現在沖縄聖書学園として。
沖縄信徒聖書学校
週二回、二年間、聖書全体の味読。

沖縄信徒伝道者学校
週一回、二年間、徹底的に個人指導と生活実践、分を弁え、分を果たすため。

沖縄聖書神学校
沖縄で聖書を、聖書で沖縄を、そしてどこえでも。

(2)これから
①沖縄の全高校のため祈りのNWの確立と活用。
イ。個人的経験から。

ロ。ホーム・ペイジの活用。

ハ。まず10年、やっばり30年は、45年では。
『開成キリスト者』21号、

『開成キリスト者』12号
吉枝隆邦、「高校生伝道の全国展開を願って」(『hi-b.A.かわらばん』94、2001年       

②沖縄8大学のカリキュラムの把握と聖書による理解、洞察。

③地域の大学の神学部としての自覚
イ。個人的経験、HDS,上智大学進学部の場合

ロ。意識は、予算が無くとも持てる。

                                地域④地域に根差し、地域を越える
拙稿、「地域を越える教会」(『キリスト新聞』、2000年)

[4]結び
私たちが直面している課題に真に対処するためには、より根底的な事実の確認が必要。その一例として、以下のことがらについて確認したい。
(1)「神学」とは。
沖縄で聖書を、聖書で沖縄を。
拙稿、「保線夫として」(『世界宣教の現状と展望-東京キリスト教学園2001記念論文集』、2002年)

(2)「神学校」とは。
地域の大学の神学部としての自覚を持つ場で、いのちのやり取り。

(3)「祈り」とは。
①祈りとは、主なる神の御心を知り、御心を行ない、御心を伝える営み。

②神学校に即して言えば、その過程で、教団・教派の都合、文部科学省・国家の意向、自己の願望(いわゆる超教派神学校と自称する場合の落とし穴)からの解き放ちを経験する必要。

③自分を捨て、自分の十字架を負い、主イエスに従う道(マタイ16章24節)、恵みの先行と恵みへの応答(Ⅰコリント15章10節)。