『わたしはあなたがたとともに』 マタイ28章16-20節 2010年10月3日 名護チャペル
『わたしはあなたがたとともに』
マタイ28章16-20節
2010年10月3日 名護チャペル
[1]序
(1)今朝は、名護チャペルに於けるマタイの福音書の味読の3回目、最終回。
マタイ1章1節の最初から、途中のすべてにおいて28章20節を目指している。ある意味で、マタイの福音書全体が書かれている目的は、28章20節を福音書を読む人々、つまり、私たちの心に刻むためです。聖霊ご自身の導きにより、今朝、現実に。
(2)マタイ28章16節-20節を、
16−18節と19,20節の二つに分けて思い巡らし、マタイの福音書全体を通して描かれる主イエスの姿を、28章20節に焦点を合わせながら心に刻んで頂く。
聖霊ご自身の導きを求めつつ。
[2]28章16−18節、「イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した」
(1)16,17節、11人の弟子たち
①「イエスの指示された山に登った」(16節)
主イエスの弟子は、主の指示に従う、そうです、私たちは、主イエスのことば・聖書のことばに従う。私たちは、主イエスの弟子なのですから。
②「イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した」(17節)
主イエスの弟子は、そして名護チャペルの群れは、真の人となられた真の神を礼拝。
ペテロもパウロも、礼拝されることを鋭く拒絶。
ペテロの場合、
使徒の働き10章25,26節
「ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。
するとペテロは彼を起こして、『お立ちなさい。私もひとりの人間です』と言った。」
パウロの場合
使徒の働き14章13−15節
「すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。
これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。『皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。』」
(2)18節、主イエス
①「イエスは近づいて来て」(18節)
②「彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(18節)
8:19。そして、
また28:20
[3]19,20節、「いつも、あなたがたとともに」
(1)19節
①「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」
②「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」
(2)20節
①「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
②「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
[4]集中と展開
(1)集中
20章20節の「見よ」
参照1章23節
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
(2)展開
①主イエスの約束、2000年の歴史で成就・
②今週、名護チャペルの一人一人の歩みにおいて実現。
『ローマ人への手紙一、二、三』 ロ−マ1章1−4節、11章36節−12章2節、16章1−2節 2012年2月19節 那覇聖書研究会
『ローマ人への手紙一、二、三』
ロ−マ1章1−4節、11章36節−12章2節、16章1−2節
2012年2月19節
那覇聖書研究会
[Ⅰ]序
(1)主の御名を讃美いたします。
昨年5月、25年ぶり関東に戻りましたところ、「おかえりなさい」とのことばを自然な雰囲気で受けました。
今回沖縄に参りました際も、同じく「おかえりなさい」とのことばを自然な雰囲気で受けました。
昨年11月、千葉市川での無教会全国大会で再会した際、何とご挨拶を交わしたかをか思い出そうとしました。
(2)とにかく私たちのまじわりの土台は、聖書。
今朝、この主日礼拝において、時間の制約の中でも、ロ−マ1章1−4節、11章36節−12章2
節、16章1−2節を味わいたいのです。
[2]ローマ人への手紙一、ロ−マ1章1−4節
(1)手紙、発信人パウロ
パウロの明確な自覚
「神の福音」を宣べ伝える使徒、キリスト・イエスの「しもべ」(1章1節)。
ダマスコ途上で、復活のイエス・キリストとの出会い。
パウロの自覚は、自分は「使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(Ⅰコリント15章9節)。
そのような自分に対する圧倒的な神の恵み。それこそ、復活の主イエスとの出会いであり、福音の宣教への召し出しです。ガラテヤ1章11−17節。
その召しに応答する、パウロの生活・生涯。
(2)手紙の主題、福音、御子に関する。
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(Ⅰコリント15章10節。
このような神の恵みの事実の中から、ロ−マ人への手紙は書かれたのです。
手紙のはじめに、主イエスの復活の事実がすべての基盤であると明示。
「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、
大能によって公に神の御子として示された方、
私たちの主イエス・キリストです。」(1章4節)。
(3)主イエスの復活のゆえに、この祈りの恵み
ロ−マ1章1−4節、ローマ人への手紙全体の基盤。例えば、8章14−27節
[3]ローマ人への手紙二、ローマへの手紙11章36節から12章2節
(1)礼拝の生活
12章1節の「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。・・・」とのパウロの神の恵みにしっかり根ざした励ましの呼びかけに意を注ぎ、ローマ人への手紙全体の構造・組み立てを大きく見通し、大きく三つに分けることができます。
①1章から11章まで。神の恵み(本当に豊かな!)の内容をパウロは明示しています。
礼拝の生活の基盤です。
②12章1節から2節まで。神の恵みに応答する者として生きた献身。
狭い意味の献身ではなく、広く豊かな献身です。礼拝の生活の源泉です。
③12章3節から15章13節まで。献身の現われである日常生活。礼拝の生活の家庭・教会・社会における現実。 満ちています。
結びの15章13節、なんとも底に撤した励ましです。
「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」
(2)ローマ11章36節
以上のような手紙の全体の流れ、また直接な前後関係を考慮しながら11章36節を味わう必要があります。
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
ローマ人への手紙9−11章までは、イスラエル人と異邦人の救いの課題に集中しています。聖書の中でも、神の救いの御業について最も深く掘り下げている箇所の一つです。
神の救いの御業、救いの歴史を熟慮しながら、パウロは、
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測りがたいことでしょう。」(11章33節)との思いに満たされているのです。その深い魂の奥底からの感動の中から、
「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(11章36節)。との讃美がほとばしり。
この短い讃美、礼拝の言葉は、聖書の中心メッセージを実にはっきりと要約し、表現しています。私でも暗記できるほどです。
唯一の、生ける、真の神との生きた関係で、すべてのこと・万物を位置づけています。
万物は、その起源(神から発し)、現在の保持(神によって成り)、終末的目的(神に至る)を、唯一の、生ける、真の神にのみに持つとパウロは宣言しています。確信に満ちています。
唯一の、生ける、真ののみを礼拝する一点で、全く鋭く一切妥協のないものです。
しかし同時に、万物全体を神との関係で見る、実に雄大で豊かな暖かい生き方を指し示しています。このように神礼拝のうちに、徹底的に神中心の思想と生活の基盤を見出して行くことは、重要な礼拝の営みです。
(3)からだをもって
11章36節から12章1節への移行は、急転直下とでも言いたい程のものです。
万物の関係で、唯一の、生ける、真の神の栄光を讃美する。この神以外のなにものにも心を奪われない一点から、ローマの教会の一人一人に目を注ぎ、「兄弟たちよ」(12章1節)と呼びかけています。そうです。主イエス・キリストにあって、神を父と呼ぶ恵みにあずかっている仲間のこの人、あの人に心の目を向けています。
そして神の恵みに感動しながら、
「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい」(12章1節)と心のこもった勧め、慰めの言葉を伝えています。それこそ、なすべき「霊的な礼拝」(12章1節)なのですから。
ここで、「こらだ」とは、人間・私の全存在という意味です。
ですから、からだをささげる全き奉献(ほうけん)とは、全生活・全生涯が自己中心(野獣のように)の状態ではなく、自己から解き放たれ、神と人のために生きよとの呼びかけです。そして自己中心の悪霊の縄目からの解放は、すべてのことが神から、すべてのことが神によって、すべてのことが神に至る事実、恵みの事実に目覚めるとき実現するのです。
Ⅰコリント6章19節、20節、
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
さらに神とすべてのこと・万物との正しい関係を知らされた者として、神から神によってなる自分の生活全体、全生涯を神にささげる、これがあるべき本来の「霊的な礼拝」(12章1節)なのです。このように、礼拝と生活の二本立てではないのです。どこまでも礼拝に根ざす生活です。生活のただなかでの礼拝です。そうです。礼拝の生活です。礼拝と生活は、本来全く一致するものです。この事実を、礼拝の生活と呼びたいのです。
神のために生きるとは、現実の生活にあっては、他の人のために生きること以外ではなく、その方法は、実に多様なものである事実は、12章3節以下でパウロが明らかにしています。その多様なあり方は、「心の一新によって」(12章2節)現実になって行きます。
そして「心の一新」は、神の恵みの事実に全存在を集中し自己中心から解き放たれ、「いのちにあって新しい歩みをするためです」(6章4節)。
[4]「よろしく」に生きる、ローマ16章1−2節
16章1−16節に意を注いで行きます。
この箇所では、15章までにパウロが教えてきた福音を実際に生きている、生身の人々が登場します。
1、2節と3−16節に分けて、味わいましょう。
(1)16章1−2節執事フィペ、助ける者・助けられる者
①一群の人々の最初に、フィベを推薦、紹介。
②港町ケンクレア教会の執事、ローマ人への手紙を携えローマへ向かった可能性。
③フィペ、二重の役割。助ける。助けられる。
今まで、パウロを含め、「多くの人を助け」てきた、しかし今は助けを必要とする可能を持つ。さらに今後は、他の人々に助けられた経験を持つ者として、なおも与えられた使命を果たしに行く姿を見ないでしょうか。
この手紙が書かれたと考えられるコリントの町、そこにいるパウロの協力者と
手紙を受け取る人々のいるローマ。その間を結ぶ、ローマ人への手紙。
その手紙を携えコリントからローマへ旅したと考えられるフイベの役割。
異郷の地にある彼女のために配慮を払うパウロの姿を見ます。みな生身の人間です。
参照ロ−マ12章15節、
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」
(2)
(1)集中
「よろしく」との一言にかけるとき、心のうちに抱かれている驚くべき内容。
ローマ1章から15章で語り継ぎ、解き明かしている福音のすべてが、
小さな「よろしく」に込められています。
「よろしく」に、パウロは、福音の全体を集中し、心をこめているのです。
まさに「よろしく」に生きています。
(2)展開
小さな挨拶のことば。
なにはできなくも、私にも許されている挨拶のことば。
そして私たちの小さな挨拶のことばが、主の恵みの御手の中で、恵みの波紋として、人の心の中で、この世の現実の中で、静かに広がって行きます。
人々の目には目立たなくとも、私たち自身でも見逃してしまう中で、私たちの挨拶のことばが福音により味付されたものとして、今週も一人一人を通し、また群れ全体を通して、静かに確実に広がり、浸透(しんとう)して行きますように。
私たちのあいさつのことば、
電話の会話、たとえば私・宮村の携帯電話、祈りの絆のため活用。
手紙もメールも、何よりも祈りが、主の御手の中で恵みの波紋と。祈りましょう。
『この方の栄光と恵み』 ヨハネ1章14−18節
2010年12月12日(日)
名護チャペル・主日礼拝
『この方の栄光と恵み』
ヨハネ1章14−18節
[1] 序
(1)今回、9−11月の7回の恵みの機会に加えて、驚いたことには、12月に2回の主日礼拝を共に、感謝と喜び。
12月12日、ヨハネ1章14−18節、『この方の栄光と恵み』
12月26日、へブル13章1−6節、『自分も肉体を持っているので』
この2回の機会を通して、クリスマスのできごと、
「キリストが私たちと同じになられた。私たちがキリストに似るものとなるために。」、この事実の意味をしっかり受け止めたいのです。
(2)ヨハネ1章14−18節において、14節の「私たちの」と「私たちは」、16節の「私たちみな」に注意。
ここでの「私たち」は、まずヨハネ福音書を最初に読んだ人々。
しかし同時に、この「私たち」には、いつの時代、どこの場所でもヨハネの福音書を読む人々も含む。
さらに、そうです。今現に、ここでヨハネ福音書を読んでいる名護チャペルの「私たち」もその喜びの交わりに招かれ、呼び入れられているのです、ハレルヤ。
2回の主日礼拝をとして、この恵みの呼びかけに応答できるよう祈り期待します。
[2]14節の「私たちの」と「私たちは」
(1)「ことばは人・肉となって、私たちの間に住まわれた。」
これこそ、クリスマスのできごと。
ロ−マ1章3節、
「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、」
ヘブル2章17,18節、
「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
ヘブル4章13節、
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
☆これこそ、まさにクリスマスのできごとです。
(2)「私たちはこの方の栄光を見た。」(ヨハネ1章14節)
福音書記者ヨハネは、「私たち」・最初のヨハネの福音書の読者が「この方の栄光を見た。』と言い切っています。
そうです、今現にヨハネの福音書から聴いている名護チャペルの「私たち」も同じです。
本当にクリスマスを心に迎えるためには、「この方の栄光を見」なければなりません。
見る責任と特権が与えられています。最高のクリスマス・プレゼントです。
(3)では「この方の栄光」とは、どのような栄光なのでしょうか。
「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」(ヨハネ1章14節)、
また「父のふところにおられるひとり子の神」(1章18節)の栄光です。
なによりもヨハネが福音書の最初1章1−5節において美しく描いている驚くべきことばで明にしています。
さらに主イエス・キリストご自身が明らかにしています。
ヨハネ17章1−5節をお読み願います。特に5節に注意。
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
クリスマスを真に祝うためには、三位一体の神への賛美が不可欠です。
またクリスマスの恵みの出来事は、三位一体の神への信仰告白への最高の導きです。
[3] 16節の「私たちみな」
「私たちはみな、・・・恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」
結論だけを。最初の恵み、罪の赦し。
さらなる恵み、永遠のいのち(ヨハネ17章3節)
〔4〕集中と展開
(1)集中
「ことばは人・肉となって、私たちの間に住まわれた」このお方から、「目を離さない」(ヘブル12章2節)。
「この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1章14節)。
「この方の満ち満ちた豊かさの中から」(1章16節)
(2)展開
12月26日、へブル13章1−6節、「自分も肉体を持っているので」おいて。
備えとして手引き、「からだをふくむ人間の全体、その意味で真の人となられたのです。それはからだを含む私たちの全存在が救いに与るため。」
使徒信條の頂点・「……罪のよるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン。」
その一つのことだけは、しないで
その一つのことだけは、しないで
★この記事を読まない言い訳として、Aさん、クリスチャントゥデイが何だらかんだらと断定を悪用しないで。
矢田社長、内田兄、そして私、3人でクリスチャントゥデイで苦悩と喜びの両立を経験しながら紡ぎ出している記事です。誰に読んでいただいても恥ずかしいものでないと確信します。
そうです、Aさん、自分の目と心でこの記事を読まない、その一つのことだけは、しないで。聖書を読まないで、説教するようになってしまわないかと恐れます。http://www.christiantoday.co.jp/articles/25488/20180429/nagasaki-uragami-kirishitan.htm
長崎・浦上の被差別部落とキリシタン 作家の高山文彦さんが講演 東京・練馬
講演する作家の高山文彦さん=26日、東京・練馬区役所で
長崎の原爆によって壊滅した長崎市浦上地区にまつわる人々を取り上げた『生き抜け、その日のために―長崎の被差別部落とキリシタン―』(解放出版社)を2年前に出版した作家の高山文彦さんが26日、東京・練馬区役所で講演した。190人の市民が、50分間の講演に耳を傾けた。
講演で高山さんは、浦上で被差別部落が生まれた歴史的経緯に触れつつ、浦上地区の被差別的な風土が長い年月をかけて醸成されていった背景を説明した。
浦上地区には、古くから弾圧を受けてきたカトリック信者と、被差別部落の人々が暮らしていた。両者は江戸時代から隣り合う土地に住み、時の権力者によって、監視する側とされる側という対立状態に長く置かれていた。
被差別部落の祖先も、江戸時代の初めまではキリシタンだった。しかし、キリシタンが弾圧される時代になると、被差別部落の人々は仏教に改宗した。やがて、一部の人々は長崎奉行所のキリシタン取り締まりにも関わるようになった。
大浦天主堂で浦上地区の十数人が潜伏キリシタンであることを明らかにした「信徒発見」からわずか2年後の1867(慶応3)年、秘密の教会で祈りをささげていたキリシタンたちが長崎奉行所に捕らえられた。その後、明治新政府によって出された禁教令で一村総流罪とされた大規模なキリシタン弾圧事件「浦上四番崩れ」だ。そこにも、被差別部落の人々が動員された。両者の対立関係は、決定的なものとなった。
原爆の投下によって、浦上町と呼ばれていた被差別部落は消滅し、生き残った人々も各地へ離散した。両者は和解することなく今日に至っている。
講演に耳を傾ける参加者たち
高山さんは、スペイン出身で後に日本へ帰化したイエズス会の結城了吾(ディエゴ・パチェコ)神父(1922〜2008)や被差別部落出身の磯本恒信らが推進した両部落の歴史的和解に向けた動きを紹介し、「若い人たちが継いでくれると大きな期待を寄せている」と語った。
講演後の質疑応答の時間には、両部落の歴史的和解につながる取り組みについて会場から質問が寄せられ、高山さんは、「問題をみんなで共有するところから始めるしかない。むしろカトリックの側から、もっと声を上げてほしい」と話した。