キリストの御教えNo78 実践すること、奉仕すること マタイによる福音書23章1-12節 2018.8.12(日) みことば福音教会礼拝説教

キリストの御教えNo78
実践すること、奉仕すること
マタイによる福音書23章1-12節
2018.8.12(日)
みことば福音教会礼拝説教

23:1そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、23:2こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。23:3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。23:4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
パリサイ人は、宗教的に熱心な人たちでした。「一番大切なのは、神さまを愛すること」と考えていました。しかし「単一思考」なので、「人を愛すること、自分を愛することも、同じように大事」とは考えませんでした。
ですから、神さまを愛すると言いながら、イエスさまを憎むことができます。人を憎むことのできる、「冷たい人間」となってしまいました。
エスさまは、「神さまを愛しなさい」という彼らの教えは守っていいけれど、「人を憎む」彼らのような人間になるな、とおっしゃるわけです。単一思考になるな。
この教えは、パリサイ人と律法学者への批判ですが、イエスさまは「群衆と弟子たちに」向けて話されました。悪人への批判でも、私たちへの大事な教訓となります。

エスさまがおっしゃるには、パリサイ人と律法学者は「モーセの座を占めて」います。これは、権威ある聖書の教師である、という意味です。
「律法学者」(グランマチュース)は「書記」という意味で、聖書を書き写す仕事をしているうちに、聖書に詳しくなりました。「パリサイ人」は、聖書を実践しようとして作った結社で、実践の中で聖書に詳しくなりました。
彼らの聖書知識は相当なものでした。ところが、それを実践する時には、ことごとく間違えました。「聖書の解釈」が違っていたのです。彼らは聖書の専門家ですから、「行い」というのは聖書の実践のことです。
安息日を守りなさい」という「聖書知識」には詳しかった。「週に一度は礼拝をしなさい」―けれども、イエスさまが、安息日に人を癒やして、安息日を守ると、「安息日違反だ」と激怒した…解釈が間違っていました。
安息日を守りなさい」までは正しいのです。ですから、彼らの言うとおりに、「行い、守りなさい」とイエスさまはおっしゃいます。
しかし、彼らの「行い」(エルゴス)―これは、「仕事」という意味です。聖書解釈の仕事です―その仕事は受け入れるな。
「そんな冷たい、血の通っていない、決して神さまの御心ではない、単一思考の解釈なんか受け入れるな」というわけです。聖書の解釈が違うと、その人の生活も人生も、全く違ったものになってしまうのです。

私たちがこのように礼拝にやって来るのは、「自分一人で聖書を読んでいると、間違って解釈してしまうかも知れない」という思いがあるからだと思います。そして、礼拝で、「こういう意味だったのか」と学びます。
礼拝で、イエスさまの解釈を学ぶわけです。けれども、パリサイ人、律法学者のような、表面的な、単一思考の解釈をしていると、対立してしまうわけです。
「彼らは言うことは言うが、実行しない」は、「言行不一致」という意味ではなく、聖書のテキストについては触れるんだけれど、その理解の仕方は間違っているので、「御心を実行していない」という意味です。

もうひとつ、「重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしない」とおっしゃいます。彼らの聖書解釈は、「ああしなさい、こうしなさい」と、できもしないことを要求するだけです。
エスさまは、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(11.30)とおっしゃって、重荷なんか与えなかったのです。イエスさまは、「あなたにもできること、簡単なことだよ」と、励ましてくださいました。
ですから、イエスさまの御教えを聞くと、明るくなるのです、気が軽くなるのです。けれども、律法学者、パリサイ人は、気分が暗くなってしまうような、重い要求をします。
彼らは、「私はちゃんと守って来た」と自慢話をしますけれど、普通の人は、そんな禁欲的な生活はできません。「とても無理です!」となっちゃいます。
「指一本さわろうとしない」―無理なことを押し付けて、何もしてくれません。普通の生活をしている人に、彼らのように、何日も断食をしたり、何時間も祈ったりなんてできない…特殊な環境にないとできません。

23:5彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。23:6また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、23:7広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
23:8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。23:9あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。23:10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
具体例を挙げますと、律法学者やパリサイ人は、特別なアイテムを持っています。「経札」は、聖句を入れた小さな箱で、頭や手首につけました。「衣のふさ」も、長くすると、格好が良かった。
信仰者らしさを演出するアイテムがあって、律法学者やパリサイ人は、格好にこだわりました。「人に見せるため」のアイテムでした。私たちは、カトリックの神父さんたちの服装は、必要ないと考えています。
また、「宴会の上座や会堂の上席」のように、律法学者、パリサイ人のための特別席が用意されていました。どうも、みんなの真ん中に、大事にされないと満足しない。
昭和天皇について書かれた本の中に、日本料理の職人を真ん中に、陛下と皇后が写っている写真があって、「当時の社会では、身分による差別はなかった」と解説があったのが、印象的でした。
エスさまは、罪人の頭となって、真ん中に十字架につけられた以外、真ん中に来ようとはされなかった。いつも、私たちのそばに、私たちといっしょに生きてくださった御方です。偉ぶってはいなかった。

律法学者やパリサイ人は、「先生」と呼ばれ、尊敬の眼差しで見つめられることを「期待」していたわけです。イエスさまは、クリスチャンは、このような「期待」を捨てなさい、とすべての信徒に教えました。
もちろん、そういう呼び方をするな、という意味ではありません。「父と呼ばれるな」と言われても、父親を「お父さん」と呼ぶな、と言っているわけじゃない。ただ、そのようなことを「栄誉」とするな、なのです。
「虚栄心」に身を委ねるな、ということなのです。むしろ、「あなたがたはみな兄弟だから」とおっしゃって、互いにリスペクトしなさい、と教えておられるのです。変な競争はするな、とおっしゃるのです。
先生と生徒であっても、師と弟子であっても、親と子どもであっても、先生が生徒をリスペクトする、師が弟子をリスペクトする、親が子どもをリスペクトする―そのような、逆の関係も大切になります。

「あなたがたはみな兄弟だからです」―神さまを信じるならば、神さまが先生であり、師であり、父なのです。その時に、律法学者やパリサイ人は、一方的にリスペクトされたいという「虚栄心」を捨てるべきです。
「あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです」「あなたがたの師はただひとり、キリストだからです」―それが、上に立つ者の心得です。それがありますと、「虚栄心」のとりこにはならない。
歳を重ねて行きますと、いろいろなものが削ぎ落とされていきますが、この「虚栄心」だけは、しつこく残るもののようです。
みんな、自分を大きく見せようとするようになる―しかし、兄弟姉妹の間で、見栄を張り合っても仕方がないではないか。神さまの御前に、いつまでも「小さな者」として仕え合ってほしいものです。

23:11あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。23:12だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
しかし、「競争心」は大事ですから、それを「人に仕える」「自分を低くする」ために使ってほしい。「人に仕える」ことで「偉大」になり、「身を低くする」ことで「高く」なってほしい。
「多くの人に仕える」ために、教会は大きくならなければなりません。10人の教会は、10人の人に仕え、100人の教会は、100人の人に仕えているわけです。
仕えるために、偉大になる必要があります。そのために、「教会組織」があるのです。
「神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた」(Ⅰコリ12.24-28)
神さまが有能な人材を与えてくださるように、私たちが賜物をささげて仕えていけますように―私たちは、「仕える」ため、「低くなる」ために、教会を建て上げるのです。決して、虚栄心のためではありません。

エスさまは、最後の晩餐の時、弟子たちの足元にひざまずき、その足を洗われました(ヨハ13.5)。身を低くなさって、兄弟姉妹にお仕えになりました。
それが正しい聖書の解釈、御言葉の実践です。身を低くして、仕えて行くことです。