みことば福音教会説教牧会者から投稿 キリストの御教えNo77 神さまを愛し、人を愛し、自分を愛する マタイによる福音書22章34-46節

★教え子の一人、みことば福音教会説教牧会者から投稿
キリストの御教えNo77

神さまを愛し、人を愛し、自分を愛する
マタイによる福音書22章34-46節
2018.8.5(日)
みことば福音教会礼拝説教
22:34しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。22:35そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。22:36「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
22:37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』22:38これがたいせつな第一の戒めです。22:39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。22:40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

サドカイ人は、「人がよみがえる」ことを信じない無神論者でした。お金がすべてという拝金主義者、死んだら終わりという唯物論者でした。
その唯物論者が、「神さまは生きておられる」「あなたの神となってくださる」「その神さまによって、あなたは生きるものとなる」と説かれて、ぐうの音も出ません(29-33)。

「サドカイ人のわなも失敗した」と聞いたパリサイ人は、「いっしょに集まった」(34)―作戦を立てて、「ひとりの律法の専門家」を、「イエスの首を取ってこい」と放ったのです。

マルコによれば、彼は善良な人で、求道心から尋ねており、イエスさまのお答えに「そのとおりです」と賛同し、「あなたは神の国から遠くない」と、ほめられています(マル12.34)。
それぐらいに、本人に邪心はないのですが、「イエスをためそうと」放ったパリサイ人の火矢であったというのです。「善人が悪人に用いられてしまう」という例です。

それで、パリサイ人の「わな」は何だったかというと、「大切な戒めはなんですか」という問いでした。これは、「最大の戒め」ということで、「ひとつに決めろ」というのです。
奥さんがご主人に、「私と子どもと、どっちが大事なのよ」と聞くとします。これって、簡単ですか? 「おまえに決まっているじゃないか」と答えるのが、正解なんでしょうか?
当時のユダヤ人は、モーセ律法を研究して、365の禁止命令と、248の積極的命令と、計613の命令があると考えました。その613の命令の中で、一つを選ぶとしたら…。
答えは、「主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申6.4-5)―これが、模範解答でした。

エスさまも、そうお答えになったのです、一応…。でもすぐに、付け加えます。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」―これも「同じく」大切だとおっしゃいます。
先ほどの例では、奥さんに「おまえに決まっているじゃないか」と答え、「子どもも大事だよ」と付け加え、「おまえも子どもも、大事なんだよ」と持って行くわけです。
私たちは、結婚しようとする夫婦に、「父と母を離れと聖書に書いてあるでしょ。夫婦の間に、親を入らせちゃいけないよ」と教えます。けれども、その次には、「父と母を敬え」とも教えるわけです。親を大事にしなさい、と。
エスさまは、「神さまがいちばん」、「隣人も同じ」、「自分も同じ」とおっしゃって、聖書の教えは、「このふたつにかかっている」という微妙なおっしゃり方をなさいました。

先月、教会のパソコンが壊れて、新しいのを―中古品ですが―買いました。ノートパソコンですが、「ヒンジ」と呼ばれる、画面とキーボートの蝶番の部分が壊れました。
蝶番の部分は、いちばん力がかかって壊れやすいんです。律法の教えも同じで、一つが大事じゃなく、神さまを愛する、隣人を愛する、自分を愛することが、最も力のかかる蝶番になっています。
神さまを愛さずに、人を愛せますか・? 人を愛さずに、自分を愛せますか? 自分を愛さずに、神さまを愛せますか?
三つのバランスが大事でしょ、ひとつだけに力を入れたら、壊れてしまいますよね。
けれども、パリサイ人は、非常に熱心に神さまを愛し、イエスさまという隣人を憎んだのでした。
これって、壊れていませんか? パリサイ人が壊れてしまい、自分を愛せなくなったのは、「何が一番大事ですか」と、二番目を削ぎ落としてきたからではありませんか?

「神さまが大事」「隣人が大事」「自分が大事」という蝶番でないと、壊れてしまうんです。これが、キリスト教の大事にする、三位一体の考え方なんですね。

22:41パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。22:42「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」22:43イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、22:44『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。22:45ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」
パリサイ人は、とても頭がいいのですが、「単一思考」しかできません。「神さまを愛することは、隣人を愛すること、自分を愛すること」と、ヒンジの構造で考えられない。
それでイエスさまは、パリサイ人のみなさんに、「考え方について」伝授なさいました。それが「キリストは誰の子ですか」でした。パリサイ人の答えはたった一つ、「ダビデの子」だったのです。
もちろん、キリストは「ダビデの子」です。この福音書の初めに、「ダビデの子孫」(1.1)と断ってありますから、間違いなく、キリストはダビデの子なのです。けれども、それだけですか…。
エスさまは、蝶番のもう一つを示されるのです。キリストは、「ダビデの主」であられる、すなわち、「神の子」であるから、「ダビデの子」だけだと、間違っているのです。

こういうことは、私たちが日常茶飯事に経験することです。友人からきついことを言われると、「ひどいな、罪深いな」と思いつつ、「神さまの声だな」と聞くわけです。
もうすぐ、終戦の日がやって来ます。特攻隊の生き残りの人が、「二度と戦争はいけない」と言いつつ、「でも、侵略されるなら、命がけで守らなければならない」と言っていました。このバランスが大事です。
バランスを欠いて、「戦争はいけない」だけでは、日本を守ることはできません。戦争がいけないぐらい、みんな思っています。平和の道は、「けれども、命がけで日本を守る」ところに生まれて来るものです。
真実は、蝶番の構造をしています。

エスさまは、聖書から論証なさいました。パリサイ人は、「キリストはダビデの子」(42)とだけ信じましたから、ローマ帝国をやっつける英雄しか、想像できませんでした。
けれども、「キリストは神の子」なので、詩篇には、「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」(44)と書かれています。
父なる神の右の座には、ダビデでも着けません。そこは、「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(詩110.4)と言われる、神の祭司キリストのみが、着くことのできる場所です。
キリストは神なので、私たちの祈りは聞いていただけるのです。キリストは人なので、私たちの弱さ、罪深さをわかってもらえますが、キリストは神なので、弱く、罪深い私たちを救う力をお持ちなのです。

エスさまが、神さまであられ、また、人でもあられるので、イエスさまという神さまを愛することは、イエスさまという隣人を愛することになるのです。神さまを愛することが、人を愛することになるのです。
エスさまが、「神であり、人である」ので、「神さまを愛し、人を愛し、自分を愛する」という、蝶番そのものとなってくださるのです。「神さまと人」を結ぶ御方は、このヒンジとなって、十字架に死なれた御方以外にありません。
夫婦の絆をしっかりと結び、神さまとの絆をしっかりと結び、親子の絆をしっかりと結んでくださるのは、この「神であり、人である」イエスさま以外におりません。

パリサイ人は、神さまを愛すると言いつつ、とても冷たい人間になってしまいました。何よりも、イエスさまを憎み、殺そうとしていました。
それは、「キリストはダビデの子」と言うだけの「単一思考」のゆえでした。
先週の水曜日に、戦艦大和の大砲を撃っていたという人が、今104歳で、インタビューに答えていました。「今の人は、私の話に耳を傾けてくれない」と、残念そうに、「日本を守るために戦ったのだ」と、その誇りを語っていました。
「私の時代には、アジアの人間は、イエローと言われて、人間扱いされなかった。私たちが戦って、黄色人種が、やっと人間扱いされるようになったのだ。」という思いでした。戦った人には、命をかけた、その大義がありました。
今の私たちが、神さまを愛するとか、国を愛するとか、日本人を愛するとか…そういうバランスを欠いて、「自分を愛する」だけの単一思考になってしまうと、ヒンジが壊れてしまうのではないか、と心配です。
エスさまが、「ダビデの子」だけじゃ片手落ちだよ、「神の子」でもあるんだよ、と説かれるような、バランスを失ってしまいます。
神を愛し、隣人を愛し、自分を愛する―そこに、ほんとうの愛があるのです。