宇都宮キリスト集会2012年イ−スタ−

宇都宮キリスト集会宇都宮キリスト集会 昨年5月、25年ぶりに沖縄から関東に戻って最初のイ−スタ−に、宇都宮キリスト集会の礼拝に参加、宣教を担当でき感謝でした。
 宣教は、ロ−マ人への手紙8章14節−17節からで、
宣教題は、『主イエスの復活に立つ、徹底した聖霊信仰』

 聖書が明言する、主イエスの復活と聖霊ご自身との堅い結び付きの事実を、今、宇都宮キリスト集会で確認し思いを集中できる恵みを感謝しました。
宇都宮キリスト集会がいかに私にとって重い意味をもつか、以前書いた一文を改めて読み直し、それ以降のさらなる展開に心満たされイ−スタ−の一日を閉じつつあります。

宇都宮キリスト集会と私
 今から10数年前、宇都宮の坂本(風間)道子姉から、沖縄の私どもに電話がありました。幾つかの場所に問い合わせ、私たちの電話番号がようやく分かったとのことでした。
 若くして癌で召されたご主人の闘病記・証の本を、二人で初めていたアートセンター・サカモトで出版したので、是非読んでもらいたいと沖縄にまで送って下さったのです。
 
 1969年、東京キリスト教短大で私の授業を受けていた坂本姉妹からの、それは本当に久し振りの連絡でした。
坂本姉と私の出会いは、1年生同士のそれでした。
私は留学から帰国後初めての授業、全くの一年生講師として教壇に立ち、坂本姉は文字どおり新入学の短大一年生。

 10数年前のあの時、今日に通ずる小さな出発があったのです。坂本姉から本を送って頂いただけではなかったのです。坂本姉妹の求めに応じ、首里福音教会の主日礼拝のテープを送り始めたのです。
 
 初めは、全く坂本姉個人にテープを送っていました。
その後、テープを2,3の親しい方々と一緒に聞いていると坂本姉から知らせを受けました。
 とこがが2000年10月、数名の方で「先生の」主日礼拝テープを用い礼拝を開始したいと「信じられなーい」電話を坂本姉から受けとったのです。
意外な話でした。「教会的な手続きをしないで主日礼拝を始める。それは問題だ」、これが、私としては当たり前の応答になるはずでした。
しかし「先生の」テープということばに、ひどく違和感を覚えたのです。
電話のやり取りのなかでの一瞬でした。「私のテープではない」、送られるのは「主のテープ」なのだと心刺されたのです。主ご自身のテープの使用法に対して、私の個人的な考えを絶対化して、あれこれ言い切れないと瞬間的に判断したのです。そして「主のテープ」の使用法について、宇都宮の皆様の考えに委ねると一歩引いたのです。

 実は、上記に紹介した1969年道子姉との東京キリスト教短大の授業での出会いには、その前史とも言うべき、もう一つの出会いがあったのです。
1958年4月、東京キリスト教短大の前身日本クリスチャン・カレッジに、私は入学しました。そこは、大学でないばかりか、短大の認可もなかったのです。日本の学制上では、単に各種学校に位置づけられる存在でした。
 ところが、学長ドナルド・E.ホーク先生の広い心と並外れた人脈の目に見える現われとして、実に多彩な方々がチャペル・礼拝の講師として来訪しておりました。
 私がまだクリスチャン・カレッジの下級生であったとき、ある日のチャペルに、その後忘れることの出来ない人物が、説教者として登壇したのです。
その名は、風間正富。
そうです。道子姉の父上です。

 確かに日本クリスチャン・カレッジの講壇には、多士済々な方々が登場していました。
しかし風間牧師は、文字どおり登場の仕方が、際立っていたものです。
講壇に立つや否や、驚くほどの声量で、祝詞をあげ出したのです。
礼拝出席一同が、呆気にとられ、度肝を抜かれる中で、尋常ならざる証が繰り広げられたのです。
 13歳のときに、父親死去。新潟で神職に就く親族の養子となったのです。
そのときから、幼いながら神主の仕事を続けたそうです。
ところが19歳のとき、聖公会の教会が配布したトラクトを手にしたことを契機に、キリスト信仰へ。それがどれ程厳しい道であったかは、今日の時点からでも想像に難くありません(『評伝 風間正富』を書きたいほどです)。

 ついには牧師への道へ。そうした激動の歩みの裏づけあっての、チャペルを震わす大声量の祝詞だったのです。
 私がただ一度お会いした、あの時から程なく、風間牧師は50歳の若さで、主のもとに召されたのです。
風間道子姉との授業を通しての出会いと、父正富先生との礼拝堂でのそれが重なり合って、私の心の奥深く聖霊ご自身による刷り込みがあったと思われます。

 2001年3月には、少人数の方々は、「宇都宮キリスト集会」を設立、さらに自覚的な歩みを開始しました。
そこに集う人々の中に、東京キリスト教短大での教え子であり、八王子と青梅と隣接教会で親しい交わりをしていた、遠山兄とご家族がおられたのには、またまた驚きました。
 
その後、私はテープを送り続けると同時に、年に2,3度宇都宮を訪問。みことばをともに味わい、主をともに礼拝する機会を持ちました。
それは、宇都宮キリスト集会の集会に先立ち、同じく家の教会として誕生した、千葉県市川市の聖望キリスト教会へ、協力牧師として私が沖縄から出かける主日の夜でした。

1996年8月4日,、5名の者が相集い、第一回の主日礼拝を開始して歩み出した、もう一つの家の教会・聖望キリスト教会と私との関係については、別の主の恵みの物語を話さねばなりません。
今ここでお伝えしたいのは、一つのことだけです。
開成中学1年5組のクラスメイトであった、大竹堅固兄の自宅。そこで主日礼拝を持つようになった家の教会・聖望キリスト教会誕生の最初から、高校の同期生でHiBAの働き人である吉枝兄、日本キリスト教団引退牧師である藤崎先生と私の三名が協力牧師となったのです。
それで、私は、年に4回、聖望キリスト教会の主日礼拝と午後の聖書の学びを担当するため、千葉県市川市まで通っていたのです。
聖望キリスト教会訪問の主日の夜は、宇都宮キリスト集会の集いに、馳せ参じたのです。

2003年5月、宇都宮キリスト集会がその小さな歩みを重ねる中で、日本クリスチャン・カレッジの先輩國吉新太郎・典子牧師ご夫妻の長男國吉陽一郎兄が、宇都宮キリスト集会の代表として立てられたことは、私にとり小さくない喜びでした。
國吉ご夫妻は、宇都宮でお父様が牧会していた日本基督教団の教会で牧会するとともに、一時期宣教師としてエクワドルで働かれました。
新太郎と典子ご夫妻ともに、若くして癌のため召されたのです。

さらに2004年4月からは、私が首里福音教会の担任牧師から協力牧師になり、首里福音教会主日礼拝テープではなく、宇都宮キリスト集会のための独自のテープを送るようになりました。そうした中で協力牧師にとの集会の求めに、私なりに応じたのです。
 その後は春と秋の総会を持ち、6ヶ月を回顧また6ヶ月を展望する意識的な歩みを重ねてきました。
 2006年4月、國吉陽一郎ご夫妻の長男愛太兄の受洗は、群れの初穂でした。
 愛太君の曽祖父、祖父ともに牧師、四代目のキリスト者です。

2008年1月 坂本ご夫妻の長男大地兄の転入式。
風間正富牧師夫人、つまり道子姉の母上、さく姉は、坂本家族とともに生活、坂本宅の家の教会・宇都宮キリスト集会にとり、宝です。
小さな集会において、みことばそのままの恵みを見るのです。
「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。
    そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、
    あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが。
    それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています」。
                   (Ⅱテモテ1章5節)

今後の歩み、お祈りください。
最後にひとつのことをお伝えしたいのです。
ときは、1923年(大正12年)9月1日、あの関東大震災
私の家族は、東京深川で被災しました。
そのため、祖母イネの郷里である、栃木県佐野市に一時移住したのです。
その佐野で、小学生であった父泰二は、聖公会教会学校に出席していたのです。
長男である私が高校卒業と同時に主に直接仕える道を選んでも、親戚一同がいぶかり,あきれるなかで、一切反対しなかったのです。
 そればかりか、私の日本クリスチャン・カレッジまた留学のため経済的援助を惜しみなくしてくれました。
 やがて父は、深川の、それも奇しくも聖公会の教会で受洗、その会員として召されました。その死の様に接し、末弟三郎は、キリスト信仰に、そして牧師の道へ導かれました。
 私にとり、栃木県の教会の牧師に導かれたのは、軽くない意味があるのです。

私が生まれる丁度10年前、内村鑑三は、『聖書之研究』の1929年10月号に、「楕円形の話」という重要な文を掲載しております。
 「真理は円形に非ず楕円形である。一個の中心の周囲に画かるべき者に非ずして二個の中心の周囲に画かるべき者である」と書き出されています。

 私にとって二個の中心とは、沖縄であり、宇都宮です。
 沖縄と宇都宮の中心に描かれる楕円形。
君代と二人でキリスト信仰二人旅、ゆっくりラストスパートの思いで歩みたいのです。
お祈りいただけると嬉しいです。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くとも悪くてもしっかりやりなさい」
(Ⅱテモテ4章2節)

「愛をもって真理を語り」
(エペソ4章12節、恩師パパニコルから受け継ぐ聖句)