宇都宮キリスト集会、主の導きの波紋は今も

宇都宮キリスト集会、主の導きの波紋は今も

★私たち夫婦・家族は、現在宇都宮キリスト集会に属しています。その背後には、50年前1969年4月日本クリスチャン・カレッジでの出会いがあり、それ以後の長い期間にわたる主の導きがありました。主の導きの波紋は今も続きます、感謝。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/25907/20180813/pianist-fuzjko-hemming-movie.htm

「宇都宮キリスト集会と私」再録
 
今から10年前、宇都宮の坂本(風間)道子姉から、沖縄の私どもに電話がありました。
幾つかの場所に問い合わせ、私たちの電話番号がようやく分かったとのことでした。
若くして癌で召されたご主人の闘病記・証の本を、二人で始めていたアートセンター・サカモトで出版したので、是非読んでもらいたいと沖縄にまで送って下さったのです。
 
1969年、東京キリスト教短大で私の授業を受けていた坂本姉妹からの、それは本当に久し振りの連絡でした。
坂本姉と私の出会いは、1年生同士のそれでした。
私は留学から帰国後初めての授業、全くの一年生講師として教壇に立ち、坂本姉は文字どおり新入学の短大一年生。
10年前のあの時、今日に通ずる小さな出発があったのです。坂本姉から本を送って頂いただけではなかったのです。坂本姉の求めに応じ、首里福音教会の主日礼拝のテープを送り始めたのです。
 
初めは、全く坂本姉個人にテープを送っていました。
その後、テープを2,3の親しい方々と一緒に聞いていると坂本姉から知らせを受けました。
とこがが2000年10月、数名の方で「先生の」主日礼拝テープを用い礼拝を開始したいと「信じられな−い」電話を坂本姉から受けとったのです。
意外な話でした。「教会的な手続きをしないで主日礼拝を始める。それは問題だ」、これが、私としては当たり前の応答になるはずでした。
しかし「先生の」テープということばに、ひどく違和感を覚えたのです。
電話のやり取りのなかでの一瞬でした。「私のテープではない」、送られるのは「主のテープ」なのだと心刺されたのです。主ご自身のテープの使用法に対して、私の個人的な考えを絶対化して、あれこれ言い切れないと瞬間的に判断したのです。そして「主のテープ」の使用法について、宇都宮の皆様の考えに委ねると一歩引いたのです。
実は、上記に紹介した1969年道子姉との東京キリスト教短大の授業での出会いには、その前史とも言うべき、もう一つの出会いがあったのです。
1958年4月、東京キリスト教短大の前身日本クリスチャン・カレッジに、私は入学しました。そこは、大学でないばかりか、短大の認可もなかったのです。日本の学制上では、単に各種学校に位置づけられる存在でした。
ところが、学長ドナルド・E.ホーク先生の広い心と並外れた人脈の目に見える現われとして、実に多彩な方々がチャペル・礼拝の講師として来訪しておりました。
私がまだクリスチャン・カレッジの下級生であったとき、ある日のチャペルに、その後忘れることの出来ない人物が、説教者として登壇したのです。
その名は、風間正富。
そうです。道子姉の父上です。
確かに日本クリスチャン・カレッジの講壇には、多士済々な方々が登場していました。
しかし風間牧師は、文字どおり登場の仕方が、際立っていたものです。
講壇に立つや否や、驚くほどの声量で、祝詞をあげ出したのです。
礼拝出席一同が、呆気にとられ、度肝を抜かれる中で、尋常ならざる証が繰り広げられたのです。
13歳のときに、父親死去。新潟で神職に就く親族の養子となったのです。
そのときから、幼いながら神主の仕事を続けたそうです。
ところが19歳のとき、聖公会の教会が配布したトラクトを手にしたことを契機に、キリスト信仰へ。それがどれ程厳しい道であったかは、今日の時点からでも想像に難くありません(『評伝 風間正富』を書きたいほどです)。
ついには牧師への道へ。そうした激動の歩みの裏づけあっての、チャペルを震わす大声量の祝詞だったのです。
私がただ一度お会いした、あの時から程なく、風間牧師は50歳の若さで、主のもとに召されたのです。
風間道子姉との授業を通しての出会いと、父正富先生との礼拝堂でのそれが重なり合って、私の心の奥深く聖霊ご自身による刷り込みがあったと思われます。
 2001年3月に、少人数の方々は、「宇都宮キリスト集会」を設立、さらに自覚的な歩みを開始しました。
そこに集う数少ない人々の中に、東京キリスト教短大での教え子、八王子と青梅と隣接教会の親しい交わりを重ねていた、あの遠山兄とご家族がおられる。またまた驚きました。
 
その後、私はテープを送り続けると同時に、年に2,3度宇都宮を訪問。みことばをともに味わい、主をともに礼拝する機会を持ちました。
それは、宇都宮キリスト集会の集会に先立ち、同じく家の教会として誕生した、千葉県市川市の聖望キリスト教会へ、協力牧師として私が沖縄から出かける主日の夜でした。
1996年8月4日、5名の者が相集い、第一回の主日礼拝を開始して歩み出した、もう一つの家の教会・聖望キリスト教会と私との関係については、別の主の恵みの物語を話さねばなりません。
今ここでお伝えしたいのは、一つのことだけです。
開成中学1年5組のクラスメイトであった、大竹堅固兄の自宅。そこで主日礼拝を持つようになった家の教会・聖望キリスト教会誕生の最初から、高校の同期生でHiBAの働き人である吉枝兄、日本キリスト教団引退牧師である藤崎先生と私の三名が協力牧師となったのです。
それで、年に4回、聖望キリスト教会の主日礼拝と午後の聖書の学びを担当するため、私は千葉県市川市まで通っていたのです。
聖望キリスト教会訪問の主日の夜は、宇都宮キリスト集会の集いに、馳せ参じたのです。
2003年5月、宇都宮キリスト集会がその小さな歩みを重ねる中で、日本クリスチャン・カレッジの先輩國吉新太郎・典子牧師ご夫妻の長男國吉陽一郎兄が、宇都宮キリスト集会の代表として立てられたことは、私にとり小さくない喜びでした。
國吉ご夫妻は、宇都宮でお父様が牧会していた日本基督教団の教会で牧会するとともに、一時期宣教師としてエクワドルで働かれました。
新太郎と典子ご夫妻ともに、若くして癌のため召されたのです。
さらに2004年4月からは、私が首里福音教会の担任牧師から協力牧師になり、首里福音教会主日礼拝テープではなく、宇都宮キリスト集会のための独自のテープを送るようになりました。そうした中で協力牧師にとの集会の求めに、私なりに応じたのです。
 その後は春と秋の総会を持ち、6ヶ月を回顧また6ヶ月を展望する意識的な歩みを重ねてきました。
 2006年4月、國吉陽一郎ご夫妻の長男愛太兄の受洗は、群れの初穂でした。
 愛太君の曽祖父、祖父ともに牧師、四代目のキリスト者です。
2008年1月 坂本ご夫妻の長男大地兄の転入式。
風間正富牧師夫人、つまり道子姉の母上、さく姉は、坂本家族とともに生活、坂本宅の家の教会・宇都宮キリスト集会にとり、宝です。
小さな集会において、みことばそのままの恵みを見るのです。
「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。
    そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、
    あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、
    それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています」。
                   (Ⅱテモテ1章5節)
今後の歩み、お祈りください。
宇都宮キリスト集会牧師として、毎週主日礼拝のためのテープを送付。
年2回であった宇都宮キリスト集会訪問を4回に。
2回は、春の総会と秋の総会(回顧と展望)。
年4回の訪問のどの場合も、午後には聖書の味読会を。
田中正造について地元方々との学び。
岩波の田中正造全集を、ある思いを込めて手放しました。そうです。福音教団から招聘した首里福音教会新任牧師に。しかしすべては水泡に帰したかに見える状態になってしまったのです。
ところが、おっとどっこいなのです。
宇都宮キリスト集会の牧師として、地域の研究グループに加わる可能性があるのです。
坂本姉の出版の仕事の師匠で、一角の人物としか言いようのない方が、郷土出版社として田中正造の関係の本、こんなにあるのかと圧倒されるほどの数の本を、坂本姉に託して届けてくださったのです。
最後にひとつのことをお伝えしたいのです。
ときは、1923年(大正12年)9月1日、あの関東大震災
私の家族は、東京深川で被災しました。
そのため、祖母イネの郷里である、栃木県佐野市に一時移住したのです。
その佐野で、小学生であった父泰二は、聖公会教会学校に出席していたのです。
長男である私が高校卒業と同時に主に直接仕える道を選んでも、親戚一同がいぶかり,あきれるなかで、一切反対しなかったのです。
 そればかりか、私の日本クリスチャン・カレッジまた留学のため経済的援助を惜しみなくしてくれました。
 やがて父は、深川の、それも奇しくも聖公会の教会で受洗、その会員として召されました。その死の様に接し、末弟三郎は、キリスト信仰に、そして牧師の道へ導かれました。
栃木県の教会の牧師に導かれたのは、私にとり軽くない意味があるのです。
私が生まれる丁度10年前、内村鑑三は、『聖書之研究』の1929年10月号に、「楕円形の話」という重要な文を掲載しております。
 「真理は円形に非ず楕円形である。一個の中心の周囲に画かるべき者に非ずして二個の中心の周囲に画かるべき者である」と書き出されています。
 私にとって二個の中心とは、沖縄であり、宇都宮です。
 沖縄と宇都宮の中心に描かれる楕円形、その場を中心に。
君代と二人でキリスト信仰二人旅、ゆっくりラストスパートの思いで歩みたいのです。
お祈りいただけると嬉しいです。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くとも悪くてもしっかりやりなさい」
(Ⅱテモテ4章2節)
「愛をもって真理を語り」
(エペソ4章12節、恩師パパニコルから受け継ぐ聖句)
  いつでも、誰に対しても福音の宣教ができる恵みを覚えて、一歩一歩なのです。 
「宇都宮キリスト集会と私」をめぐり、敬愛するお二人からの手紙。
一人は、石川福音教会の重元清牧師から戦場での連絡文。
沖縄における20年を越える年月、重元ご夫妻は私ども二人にとって常に主にある戦友。
 
「一方、勇気とは未知にかかわるものであるが、いわば拡がりは既に知られており、ただその深度と強度の点で未知なのである。後者つまり勇気の場合は、既知あるいは外延において既知になった未知の枠内において、強度の未知が存在する。この意味で、老年は勇気を要するのである。青少年はむしろ大胆の方に向いているのだから、老年は青少年のまだ知らないような大変な勇気を必要とするのである。僕にとって老年は・・・、年を重ねるにつれてますます激しく吹きつのって罷まない嵐に対抗することなのである。
不安に胸をしめつけられながら絶えず風向きを窺い、苦労を重ねてゆっくりと右に左に進んでいく船のように、あるいは、危険な場所にさしかかって速度をおとす自動車のように、その中を進んで行く。何となれば、老年においては(そしてそれが老年独自の性格なのであるが)進むにつれて既知が未知に吸い込まれていくからである。このように厳密に規定された意味において、老年とは、幼な児が全く無力のままに自然の脅威に晒されている、あの幼年期に戻ることである。老年固有の叡智というと、諦めの境地に達した・・・すぐに言われるが、それは余りにも安易なむしろ人を馬鹿にした考えであって、実際には,途轍もなく・・・経験をはちきれんばかりに積み込んで重く水中にのめりこんだ船を、暗礁と荒れ狂い泡をかむ激浪との間をぬって、慎重に、労苦に労苦を重ねて導いていく、苦悩にみちた老船長にこそそれは似ているのである」(『森有正全集』 14 145、146頁 『日記』1970年5月4日)」。
主の御名を賛美します。
宮村先生。牧師就任式、おめでとうございます。
先生から送られてきた「宇都宮キリスト集会と私」を読みながら、熱いものがこみ上げて、涙が止まらなくなりました。
 上の文章は、たまたま読んでいた、森有正の「老年」について書かれたものです。
「老年は、・・大変な勇気・・・」の所を読みながら、宮村先生の姿が浮かびあがってきたので、コピ−しました。(老年と語るのは失礼と思いつつ)。
 先生の勇気と冒険を主に感謝しつつ。」
もう一人の方は、新しく出会い、しかし旧知のごとき先達・蓮見和男牧師からの愛の文。
蓮見和雄先生との出会い、それは全く予期しない経過で実現したのです。
ことは、2003年4月、J.モルトマン博士が沖縄を訪問、一連の講演をなされたことに端を発するのです。
蓮見先生は、モルトマン先生の通訳として、やはり優れた神学者である幸恵奥様とご一緒にモルトマン先生に同行なさったのです。
ではモルトマン先生がなぜ沖縄を訪問することになったのか、またどんなことを語ったのか。モルトマンの沖縄への旅の記録集、新教コイノニアVOL.22号『人類に希望はあるか 21世紀沖縄への提言』(2005年、新教出版)に、その消息を見出すことが出来ます。
その中で、蓮見先生は、沖縄の篤信の信徒から先生のところに届いた一通の手紙がすべての始まりであると、明らかにされています。
「2001年四月、モルトマン七十五歳誕生の記念タ−タングがドイツのバ−トボルであって、帰ってきたばかりの時でした。・・・モルトマンを沖縄に招聘したいとの切なる願いでした。」(93頁)。
蓮見先生の最初の応答は、
「正直言って、半信半疑でした。というのは、世界的学者を招聘するには、あるキリスト教の団体や大学、教会を予想していたので、全く個人の願いに、私はとまどいました(強線、宮村)。『何とかして断りたい』というのが、偽らない気持ちでした」(同頁)。
偽りのない気持ちから、率直な返書が伝えられました。
「すぐに、『それは難しい。モルトマンはもう七十五歳だし、足がお悪いし、持病のゼンソクもお持ちだ。それに日本へは、もう五回も来ている』という意味の返事」(同頁)。
これで一巻の終わりか。
おっとどっこいなのです。
「そこにもう一度手紙がきました。私の心は、少し動きました。モルトマン自身に聞いてみなければ、私が勝手に判断はできない(強線宮村)と考え・・・野島牧師に、長嶺さんの二通の手紙のコピ−とモルトマンのところに行ってほしいとの依頼状を出し、同時に、モルトマンに長嶺さんからの依頼と、野島牧師が行くからとの手紙」(同頁)を蓮見先生は出されたのです。
「分をわきまえ、分を尽くすとは、このような言動なのだな」、胸にすとんと。
「沖縄の心とモルトマンの心とが通じあいました。モルトマンは快諾し、諸教会合同の招聘委員会をつくってほしいと手紙で言ってきました」(93、94頁)。
沖縄キリスト教書店でこの記録集をたまたま立ち読みしていたとき、驚いたことに蓮見先生が私のような者について記しておられるのに、気づいたのです。
「英語の通訳者は、前もってきめていた方が、急に出来なくなり、急遽、宮村牧師が選ばれました。それなのに、宮村牧師のすばやい、しかも的確に通訳に舌を巻きました。突然頼まれて、これだけできるのは、ただ者ではないと。・・・」(95頁)。
「・・・モルトマン神学は沖縄の地に、血となり肉となって、実を結ばせるでしょう。
長嶺さんの祈り、饒平名牧師の組織力、村椿牧師のドイツ語力、宮村牧師の英語力、それらを支える、全教会の力が結集されたのだと思います。・・・」(95頁)。
 私は、蓮見先生に手紙を書きました。
「あの通訳は、英語力によるのでなく、神学力によるものだ」と。
「一寸の虫にも五分の魂」の心意気で。
「私は、モルトマン先生が聖書ですべてのことを読まれているのと全く同じように(あの宗教改革者が指し示してくださるように、聖書を恵みのメガネとして万物を直視する道)、聖書で沖縄を読み続けるべく歩んできた。それでモルトマン先生が話される前から、何を話されるか承知していたのです。すくなくもその大意を。それで先生の話を聞きながらは、ひたすら細部に意を注ぎ、自分を捨て、モルトマン先生のことばの下に徹底的に自分を置く(−アンダ−・スタンド−)ことを務めました。
 その意味で、英語力ではなく、神学力だ」と。
 蓮見先生は、この無鉄砲な発言を受け止めてくださったのです。
「あの通訳は、単に英語力でできるものでない。私の今までの経験から、そう断言できる」。
こうして、海の隔てを越えて手紙のやり取りを重ねたのです。
その上、今年2月28日、お二人の先輩神学牧会者・牧会神学者を訪問する機会すら実現。
 このような背景から、宇都宮キリスト集会牧師就任式にあたり、お心のこもった便りを書き送ってくださったのです。
「就任式のお知らせをいただいて、びっくりしています。
なぜかという,四月五日(土)私は、前々からかかわっていた宇都宮の「さつき幼稚園」(すずめの宮下車)に行ったのです。
 その幼稚園の落成式、学校法人になって初の開演式があったのです。
 実は前日から行ってホテルに泊まりました。
 朝テレビをつけると、キリスト教の番組をやっていました。中々よい番組で途中かでしたが、終わりまで見ました。
 「峰町キリスト教会」といっているではありませんか。
 私は一つの教会で、テレビの番組をもつことにびっくりしていたら、その日の落成式に、最初に独唱して下さった下村洋子さんは、ずい分前から存じていたのですが、そのご夫妻が峰町教会の会員。
 工事を請負った建築者も峰町の教会の人。
 一度この峰町の教会に行ってみたいと思っていたら、就任式の司式が峰町の牧師(同教会の安食牧師が、宇都宮キリスト集会牧師就任式の司式という、まさに火中の栗を拾ってくださったのです。それで式の案内にお名前を心からの感謝をもって記したのです。)。
それに下村さんの名も見えるではありませんか(就任式での独唱者として)。
 就任式にとんでゆきたい気持ちですが、日曜日は、世田谷千歳教会の礼拝とその後も何かとあって、どうしてもでられません。
 残念です。
                     蓮見和雄
   宮村武夫様                              」
 2月28日の訪問において、蓮見先生が21世紀において意を注ぐ課題として、沖縄、イスラム、そして朝祷会と明示なさったと重元先生に報告したところ、
重元牧師からのメ−ルには、
「 宮村先生へ
 蓮見先生の「朝祷会」発言は、目が洗われる感じがしますね。・・・」と。
キリストにあっても、友は友を呼びます。感謝。