2012-07-09
出 会 い も の が た り
祈りのリンク 聖書味読・身読 徹底した聖書信仰 編集 再録
    出 会 い も の が た り             細田   浩
一 聖書との出会い
(一)聖書は、自分自身の生き方に自信があるとき、あるいは人生の絶頂期に読める書物ではない。人生の荒野を一人でトボトボと歩まなければならず、自分自身の力の限界を嫌というほど知り尽くしたような状態において初めて手を伸ばす書物だと思う。私の場合は、一九七一年(昭和四六年)、司法試験の第二次試験を通過できず、再度チャレンジすべきかどうか人生の選択に迷っているときであった。その年の夏アルバイトをしているさなか、文化放送の「世の光」のメッセージを耳にし、「よし、聖書をしっかり読んで自分の生き方を極めてやろう」と決心したところから始まったのである。
(二)当時は、東京の府中市に下宿があったので、府中市立図書館備え付けの聖書を読み始めた。しかし、聖書は、旧約聖書が一五六八頁、新約聖書が五〇三頁(新改訳聖書)という相当にボリュームがある書物であるのに加え、キリスト教の特殊な用語やイスラエルの二〇〇〇年前の歴史を前提とした書物であることから、一人で読んでもとても歯がたたない本であることがわかってきた。そのとき、聖書を読むことを放棄するか、それとも諦めないで読み続けるのか選択を迫られた。しかし、同じ日本人で聖書を読み続けている人達がキリスト教会内には相当いるようだし、とりたてて私と能力が違うようではないようだから、教会の門を叩いて教えを請うことにした。それが府中市の多摩墓地東側にあった多摩教会という小さな教会であった。
(三)多摩教会には坂井栄一という若い牧師がいた。私は、聖書を独学していたときの疑問を山ほど抱えていたから、牧師から聖書のメッセージをしていただいた直後に、次々と質問の矢を放ったが、坂井牧師はそれに対し丁寧に忍耐をもって応えてくれた。聖書の内容を理解するには、ただ牧師の説教をありがたく聞いているだけでなく、問答形式でわからない部分を問い質すことが早道であることがわかってきた。それに加えて、聖書の読み方は、法律の学び方と共通している点が多いと思う。昔、私が基本書として読んでいた我妻栄東大教授が『民法案内』という本の中で、「自分は法律のある箇所がわかるまで前に進まない」という文章があったことを記憶している。聖書の読み方にしても、聖書全体を速く読んで何を言っているのかを知る必要もあるが、聖書六六巻を一巻ずつ丁寧に読むことが必要だと思う。そして、法律家こそがそのような作業をするのが最も得意とする人間である。良質な講解説教集によって、聖書一巻ごとに、約三〇年聖書を読んできた。聖書は、コツコツと生涯をかけて読む書物だと思う。
(四)私が約三〇年間聖書を読み続けてきたのは、この書物が生涯かけてもすべてを解読しきることのできない神の存在と働きに関する記述であり、蟻のような小さな人間にとってはすべてを極め尽くすことができないからである。その意味では聖書を極め尽くすという当初の気負いは誤りであったことがわかってきた。しかし、そうではあっても聖書を読み続けていくと、自分自身の家庭と教会生活及び弁護士の仕事の上に恵みと励ましが与えられるのである。詩篇一一九篇一三〇節には、「聖書の御言葉の戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」と書いてあるがそのとおりである。聖書には、アブラハム、イサク、ヤコブモーセダビデ、ペテロ、パウロなど極めて個性的に豊かな大勢の人物が登場するが、いずれも現在に生きる私たちに対し、自分の犯した人生の失敗について具体的に語り掛け、「君たちはそのような失敗はするなよ」と叫んでいるようである。勿論このような聖書に登場する人物も、神による罪の赦しを前提として語っているのであろうし、聖書を読むわれわれも、主イエス・キリストによる罪の赦しがあるからこそ、正面を見据えて聖書を読むことができるのである。私は、現在の書物を読むよりも、二〇〇〇年以上も前の聖書に登場する人物と語り合う方が、はるかに教えられることが多いのである。
二 宮村武夫先生との出会い
(一)私が、宮村先生と出会い、深い交わりが始まったのは、一九八五年(昭和六〇年)五月二日から七日にかけて、新約教団主催の第二回沖縄聖会に参加したときであった。私は、この聖会に参加する予定は元々なかった。しかし、当初参加を予定していた甲府キリスト福音教会(私の母教会)の牧師溝口捷支先生が行くことができなくなり、急遽ピンチヒッターとして、私が参加することになったのである。新約教団の牧師・信徒ら一七名が、沖縄本島首里・宇堅・石川・星の子学園の各教会、石垣島八重山キリスト福音教会をそれぞれ訪問することになった。その際に、宮村武夫先生が翌年四月に首里福音教会牧師として赴任することが既に決定していたので、そのツアーに同行することになった。そして、宮村先生が講師として沖縄の各教会に在住する信徒の方々と本土からやってきたわれわれが一緒になって、聖書の御言葉を聞く機会が与えられたのである。
(二)五月の連休で、ムーンビーチは肌が焼けるほど暑くコバルトブルーの海で泳ぐことも可能であった。しかし、首里福音教会の会堂といえば、旧米軍の蒲鉾型兵舎を使用しており、他の諸教会も横並びで、朽廃に近い会堂で礼拝をしていることが分った。五月五日(日)午後四時半、南西航空で沖縄本島から四五〇キロ離れた石垣島に飛び、八重山キリスト福音教会(浦田征洋牧師)の新約教団への入団式に参加。狭い会堂内は、本島と本土からの参加者二八名も入ったので、超満員であった。その中で宮村先生の司式によって熱気溢れる入団式が行われたのである。離島で、長い信仰生活を闘い抜いてきた八重山キリスト福音教会の会員一人一人が立って紹介された。
(三)宮村先生とは、それ以前にも、特伝講師として私たちの教会にお招きしていたので面識はあったが、深い交わりはなかった。しかし、沖縄での四泊五日の旅行期間中、沖縄のことについて、個人的に何回となく、話し合いの時をもち、教えを受けた。そして、宮村先生は、何回かのメッセージの中で、「沖縄で聖書を読む課題・喜び」と「聖書で沖縄を読む課題・喜び」があることを繰り返し語られたのである。私にとって、沖縄に関する知識は、皆無に等しく、宮村先生を通して、初めて沖縄に関する認識をキリスト者として持ち始めた。
三 申命記との出会い
(一)宮村先生の申命記は、いのちのことば社から、新聖書講解シリーズの旧約4として、一九八八年(昭和六三年)一月一五日に出版されている。ということは、前述した沖縄聖会の直後の頃から申命記の執筆を始めていたのであろうか。また、私の手元にある申命記の背表紙裏には、「一九八九・六・五読了」と鉛筆書きしてある。私は、この本は自分で購入したものとばかり思い込んでいた。ところが、宮村武夫著作1(以下「著作1」という)三一四頁に「著作集刊行の準備と平行して、保管してきた手紙類を、今までの主に交わりを回顧し、今後のそれを展望しつつ、感謝をもって手紙を下さった各自に送っています」と宮村先生が書いてあるとおり、私が宮村先生に書いた手紙が何と一八通も帰ってきた。まさに、私の手紙が私のところに里帰りしてきたようなもので、すっかり記憶から消されている事実が次々と浮かび上がってきた。その中に、一九八八年(昭和六三年)四月一七日の葉書に、次のようなことが書かれてあるのを発見した。
 「主の御名を賛美申し上げます。先生の御著作「申命記」の本を贈って下さりありがとうございます。感謝します。前から、このシリーズは買い求めており、申命記も本屋の店頭に並び、買おうとしたところ、今日礼拝の時、教会ボックスのところに小包があったので開いたところ、求めていた本であったので驚きました。しっかり学びたいと思います。先週の日曜日教会総会が無事終りました。一〇年間休暇の全くなかった溝口先生に八月の一ヶ月間休暇を与え。聖地旅行へ行ってもらうことになりました。ようやく牧師先生に対して、一息いれてもらえるようになれたことは、私たちにとってもうれしいことです。お祈り下さい。それから、会堂建設の借入金返済が二月に終り、残金五万円余をどうするかを総会の中で話をしましたが、現在会堂建設に励んでいるところに献金しようということになり(私たちの会堂も一割は外部献金だったそうです)、首里福音教会に送ることを全員で決定しました。甲府も葉桜になりつつあります。首里では、もうとっくに桜は散ってしまったことでしょう。五月の特伝は、学生クリスチャンセンターで、小坂忠、岩淵まことさんらを呼んで行うことになりました。お祈り下さい。最後にもう一度ありがとうございました。」と書いてある。
この申命記との出会いは、宮村先生から贈っていただいた本であったことを、二〇年振りに思い起すことができたのである。
(二)さて、この申命記は、「一九八九年(平成元年)六月五日読了」と書いてあったことは、前述のとおりである。聖書の福音は、私たちの身も魂をも支配し、慰めを与えてくれるものである。従って、当時の私の身と魂は、どのような生活状況の中にあって、申命記を読んでいたのかを、まず想いおこしてみたい。平成元年頃を回顧してみると、バブル経済が絶頂期に達する頃であり、日本経済が世界中で最も好況で、土地も株もあらゆる物が右肩上がりで、日本という国が最も自信を持っている時代であった。しかし、この狂ったような景気が一体いつまで続くのかという仄かな不安感を誰もが持っていたし、真面目にコツコツ仕事をすることが馬鹿馬鹿しく思え、転職する人々も確かに多くいた時代であった。我が家を回顧すると、六人の子供達のうち、
長男健太郎と二男恒太郎が小六(双子)、
長女あき子(小四)、
二女弘子(小二)
、三男信太郎(五才)、
三女なつ子(三才)と、極めて賑やかであった。
当時、毎週土曜日午後五時からは、近所の子供達も含め一五名位が家に集まり、土曜学校が開かれ、私が「成長」を教材として聖書の話をして七年目になっていた。当時の家は、古く狭い建物で、子供達は、二段ベッドや押入れの中で寝ていた(家の新築は、平成三年九月)。従って、聖書をじっくり読めるような住宅環境ではなく、事務所に行って読んでいた。また、教会のことについて回顧してみると、いつもいろいろ混乱しており、役員会は午前一時頃まで話し合いが続き、月一回の信徒会が必ず開催されていた。私は、教会書記として、毎回議事録を正確に作成することが、私の重大な使命として課せられていた。その中で、教会内の混乱を解決するには、この世の法律というルールによるのではなく、聖書の御言葉が一体この生きた教会に対して何を語り、何を求めているのか、真剣に求めざるを得ず、そうでなければ何も展望は開かないと思っていた。人の噂とか評価という曖昧な基準で、教会内の問題を解決しようとすると、教会自身が崩壊するし、自分自身の信仰も絶対に駄目になるという確信があった。それ故に、改めて、聖書を忠実に学ぼうという動機付けが与えられたし、御言葉の中に追いやられ、その中においてのみ、慰めと励ましが与えられ、また、教会内の諸問題に耐えられた。申命記は、そのような時代に読まれたのである。平成元年の私の日記を読んでみよう。
(三)(三月二七日)「事務所に行った頃から雨が降り始める。申命記八章を昨日に引き続いて読む。「すべての教え」と「徐々に」ということを学ぶ。今日、裁判所へ行く途中気付いたことだが、祈りの言葉が抵抗なく次々と出てくる。いつもの日と違う。普通ならば、もっと目の前の身近な問題に捉らわれて、あるいは頭の中が世俗的な事柄で充満していて、なかなか人のことを祈れないと思っていたのに、どうしてであろうか。それは、事務所の中で、まず御言葉を学び、神が私の心の中に入り住んでいるからこそ、祈る力が自分自身に与えられたのだということに気付く。祈りの内容もさることながら、まず、祈る力それ自体が与えられることも神による。換言すれば、神が御言葉を用いて祈らせるのだということを知る。祈れないということは、神が私を用いていないということ、そして、その原因は、私が御言葉を学ばないことに原因がある。」
(四)(四月一〇日)「歩いて事務所へ、申命記一八章を読む。宮村先生は、この箇所を相当頁をさいて語られる。特に祭司について。レビ人は、カナンの地に相続地が割り当てられていない。それは、経済的基盤がないということで、欠ける点があるということだ。しかし、その欠けたる部分をもって、主が自分を生かして下さるということをあらわす使命が与えられている。その欠けたるところ・欠如がある故にである。キリストの十字架の贖いにより、わたしたちも、牧師も祭司として立てられている。その弱さ、欠けたるところを用いんがためにである。」
(五)(四月二〇日)「八時三〇分頃事務所へ行き申命記を読み続ける。今日の二四章は、なかなか興味深い箇所であった。一〜四節は、恰も離婚を勧めているようにも読める箇所であるが、決してそうではなく、破綻しつつある夫婦のあるがままの状態を放置しておくのではなく、むしろ主は結婚それ自体を祝福されたもので、離婚出来ないものであることを大前提として、なおそうであっても離婚せざるを得ない夫婦の崩壊を最小限にくい止めるため、離婚事由(妻に恥ずべき事が存在)と離婚方法(離婚状の交付)を限定としているのだという。なお驚くべきことに、五節では、『人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務を課してはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない』と記載され、新家庭を積極的に形成していくべきことが、国家の戦いよりも優先されるべきことが語られている。一〜四節と五節は、家庭の重要さを示す意味で深い結びつきがある。」
四 加藤常昭・竹森満佐一諸先生との出会い
(一)私は、いつの頃か定かではないが、鎌倉雪ノ下教会牧師加藤常昭先生の講解説教集を購入し、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書ヨハネ福音書を何年もかかって読むようになった。加藤先生の説教集を読み始めて、初めて聖書の御言葉の内容の豊かさ、賛美歌やキリスト教の彫刻や絵画への案内(特にレンブラントなど)、ドイツのキリスト教会のことなど、今まで知り得なかったキリストによる福音の広がりと歴史の深さを知るようになっていった。その講解説教の中で、度々登場する人物が吉祥寺教会竹森満佐一牧師のことであった。驚いたことに、加藤牧師も、東大哲学科に入学された頃、信仰的にダウンして教会を離れてしまった期間があったのだという。その際、学生であった加藤氏の信仰再生をさせたのが竹森牧師で、加藤氏は吉祥寺教会の会衆席最前列に座って、全身が耳と化して聴いたという。説教を聴く喜びを回復し、深化させ、説教についての確信が与えられたのだと言う(自伝的説教論一一三頁)。
(二)そこで、私も竹森先生の「ピリピ書講解説教」から読み始めることになった。ところが、竹森先生による主日説教は、「説教題」が付いていないのである。そして、説教集を読み始めると、すぐに気づくことであるが、竹森先生御自身の事は一切語られない。また、御言葉の理解を助けるための具体的事例をあげることも殆どないし、誰かの言葉を引用することが仮にあったとしても、「ある人が」と説明するだけで、実際には誰が言ったのか一切分らない(ただし、カルヴァンとルターが発言したときは、名前が特定されて引用してある)ということで、誠に、表面的に見る限り、不親切で素っ気無い説教なのである。ところが、加藤先生は、これが日本で最も代表的な講解説教で、若い人々にも是非読んでほしいと勧めるのである。私は、一回読んだだけでは、とても歯が立たないから、一回の説教を三〜四日かけて何回も繰り返し読み直す。大事なところは、定規で破線を引いてみるなどして、瞑想して読むことを続けた。そのような、非常にゆっくりではあるけれども、何回も繰り返して読んでいくと、実は非常に分りやすい説教であること、そうして、読者である自分自身が無意識のうちに感じている筈の疑問点を意識上に顕在化させ、それを御言葉をもって的確に回答する説教を繰り返していることに気付いてきた。信仰者は、「ひたすら信じることが大事なことなのだ」と強調される余り、自分自身の心の奥底から浮き上がろうとする素朴な疑問すら、無理矢理押し殺してしまう誤った傾向があるのではないか。だから、御言葉に対する信頼が弱く、中途半端な信仰にとどまってしまう。竹森さんの説教は、ハイデルベルク信仰問答のような素朴な質問と、それに対する答えを、順序正しく繰り返しながら、本質に迫る説教ではないかと思った。そして、ピリピ書に続いてエペソ書、コリントⅠ、コリントⅡへと何年もかかり毎日読み続けてきた。ただし、竹森さんは既に天に召されて相当時間がたち、説教集も少なく、私たちと教派も異なる日本基督教団の牧師である。日本福音キリスト教会連合内では、私一人だけしか読んでいないのではないかと案じ、しかし、「それでもいいや」と思いながら、朝のデボーションテキストとして、読んでいた。
(三)ところがである。宮村先生の著作Ⅰ・三一八頁に戻ってみると、
「たとえば、竹森満佐一先生から、一九八六年以降に頂いた一〇通の葉書と一通の封書。もう先生へお送りすることはできず、私の手元に残っているのです。」と書いてあるではないか。
どうして、宮村先生は、竹森先生を知っておられたのであろうか、そのことを、とても知りたく思った。
二〇〇九年(平成二一年)一〇月二〇日の夜、宮村先生から自宅に突然電話が掛かってきて、申命記が著作集として発刊される際、私にそのメッセージについて執筆するよう依頼があった。その際に、私は、右の疑問について尋ねてみた。すると、宮村先生は、浜田山に神学校があり、その神学生であった頃、祈祷会のあった水曜日は、竹森先生のメッセージを聞くため、井の頭線に乗って、わざわざ日基の吉祥寺教会まで通っていたのだという。それ以来竹森先生と宮村先生とは、長い交わりが続いていた。
神様は、不思議な方法をもって、宮村先生と私が、長い年月と教派を超え、同じ竹森先生を通して、神様の御言葉を聞かせていただいていたことを明らかにして下さった。宮村先生も、本当に驚いた様子で、電話の中で主の不思議な恵みの感謝を祈っていただいた。私は、その祈りの声を忘れることができない。    
            (昭和町キリスト教会 会員)