21世紀を見据えた宣教 ー地域教会の視点からー 首里福音教会(執筆当時) 宮村武夫 再録

21世紀を見据えた宣教
ー地域教会の視点からー
首里福音教会(執筆当時) 宮村武夫 再録

 

★2千年を、沖縄の地域教会の一員として迎える中での思索。
その背景には、日本新約教団誕生とその後の歩みの中で、一貫して教会とは何かとの問いと実践的な営み。
 その中での日本福音教会連合へ道。特に単立連盟やリーベンツエラーがJEAへ参加する中で、日本新約教団が参加しなかった理由として、JEAの教会性への疑問。
 現在。個人的には、ビブリカル・聖書的エキメニズムを提唱、実践。
1963年秋、日本クリスチャン・カレッジ1年生であった時、吉祥寺教会を訪問、竹森満佐一先生との出会い。竹森先生のご召天まで、個人的な導きを頂きました。
 また沖縄での25年間も、日本基督教団沖縄教区の牧師方と親しい交わりを重ね、特に金城重明、平良修両先生は、私の聖書信仰を評価してくださいました。
 さらに今回の一方的な日本基督教団総会議長のクリスチャントゥデイに関する声明の中にあっても、幾人かの日本基督教団牧師方の誠意ある対処に対して、心から敬意を払います。
 一匹の虫にも五分の魂です。「聖なる公同の教会を信ず」と信仰告白する者として、対話・対決を重ねたいと覚悟しています、千年単位で。
[1]序.
(1)「世紀」を手掛かりに時,歴史の受け止め方.
 主なる神の「御手の中で」,時・歴史を通し現される主なる神の導き.(2)「宣教」を手掛かりに,キリスト者・教会の理解.
(3)「見据える」を手掛かりに,生き方・姿勢の確認.
[2]千年単位で見る.
(1)聖書と時の流れ.
 聖書の中にも時の流れ,たとえばマタイ1章1節.
 「アブラハム(約四千年前)の子孫,ダビデ(約三千年前)の子孫,イエス・キリスト(約二千年前)の系図」.
 聖書と私たちの間に横たわる世紀の隔たり,少なくも約二千年.
(2)聖書の中にながれる時,聖書を通して見られる時・歴史の一貫性と進展性.
 新約聖書(たとえばパウロ)が旧約聖書(たとえばアブラハムの記事)をあたかも同時代のひと・ことのように引用している事実.天地創造から新天新地(再創造)まで一貫した,あたかも同時代であるかのように見なされる時の流れとして受け止められている.
 しかも,完成へ向けての進展(もっともはっきりしているのは,旧約に対する新約の場合の大枠).
(2)「世紀」の場合のように,時の流れに区切りや節を見る意味,目的.レビ記23章には,7日・1週間,1年,7年,49年・50年(ヨベルの年)などの節目とそれらを通しての一日の大切さが浮き彫り.これらは,人間の弱さに対する,主なる神の行き届いたご配慮.節目を通して慰めと励ましを与えられ,神の民は前進.大きな節目としては,千年が適切では.
[3]キリスト者・教会にとって,「宣教」とは.
(1)神の恵みは,「はじめに神」(創世記1章1節)が明示しているように,豊かに与えられている.この神の恵みの事実を自ら実感し,主なる神の恵みを放蕩息子がそうであるように無駄にしている人々(ルカ15章13節)に無駄にしないように伝える( コリント6章1節).
(2)そのためには,個人としても共同体としても,神の恵みを無駄にしない日々の生活・生涯とキリストにある文化の形成.つまり,主なる神が人間を創造なさった意図・目的・言い分に従い,人間らしい人間,本来の人間としての生活をなし生涯を送り,その全生活・全生涯を通して宣教.あるいはその全生活・全生涯が宣教.
[4]結び
 日本福音キリスト教会連合に属するキリスト者・教会として,基本的な態度・姿勢として,うそを言わない,真実であること.そのための日々の戦い.そのためには,少なくとも以下の三つの点.
(1)一日を大切に.「一日は千年のようであり,千年は一日のよう」( ペテロ3章8節),一日が大切.「一日一生」(内村鑑三).
 地域教会の主日礼拝を中心とする共同体の歩みと,各自のみことばと祈りを通して日々小さな祭司としての歩み( ペテロ2章1ー10節).
(2)聖なる公同の教会を信ずるとの信仰告白受肉
 SLOTのうち,Tについて,同盟基督教団との関係を歴史的,教会的に明らかにする努力.
 天の勝利の教会と地上の戦闘の教会の生きた関係.人の死をどのように受け止めるかの現れとして,葬儀のあり方.
(3)みことばと聖霊ご自身に導かれ悔い改めつつ,正しく,深く,豊かに見(地域社会と世界),聞き(神のことばと隣人の必要),語る(世界に通用する表現で,たとえば「私たちは教団ではない」など,英語で表現できないような言い方ではなく」.
 人間らしい人間,私らしい私としての道.