残された生涯のテ−マ「礼拝の生活」再考その126

1973年4月22日発行
「礼拝の生活」126号
 
(巻頭言)「復活の朝」 
 
 今年も、主イエスの復活を記念するイースターに、洗礼式が持たれます。
数年間にわたる求道生活の後、主イエスを個人的な救い主として信じ、生きる決心に導かれた浜野姉妹。
また神は私の回りを取り囲む盾との確信を与えられ、キリストに従う生涯を歩むことを、公にする喜びに導かれた師岡兄。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:9、10)との聖書の約束が、二人の上に成就されていることを知って、神のみ名を心から賛美せざるを得ません。
 
 私たちの信仰は、イエス・キリストを死者の中から生かす神を信じる信仰です。絶望の中における希望としての信仰です。あのアブラハムの信仰、つまり、「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」(ローマ4:8)との信仰です。
 
 しかし、この復活の信仰は、ただ信仰の対象というだけではありません。私たちは、イエスの復活を信じるとき、取りも直さず、エスの復活を生きることを、自分の生涯と生活の中心とすることを意味します
その決心を目に見える形で告白するのが、洗礼の一つの大きな意味です。ですから、使徒パウロは、イエスの復活を生きるということを、自分の生涯と生活の中心とすることを意味します。その決心を目に見える形で告白するのが、洗礼の一つの大きな意味です。ですから、使徒パウロは、イエスの復活を生きるキリストの新しい生活について、
キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」(ローマ6:34)とはっきり教えてくれています。まさに、葬式と誕生日(「礼拝の生活」85号参照)です。
 
 この「いのちにあって新しい歩み」が、私たちの各自の生活において、どのような実践となるのか、復活の信仰にとって、最大の鍵です。

 先日も、求道中のFさんと、ルカの福音書23章と24章を読んでいるとき、教会に来ているキリスト信者は皆、イエスの復活を信じて生きているのですかと問われました。これは、本当に、大変な問です。私たち各自の生き方が問われるのですから。
 私の毎日の生活の中で、復活の信仰を生きる、これが初代教会の中心課題であり、私の今求められていることです。これは、課題というより事実です。
この事実に目ざめ続けるとき、キリスト者のこの「地」における生活が意味深いものとして、経験されます。
  私の毎日の生活というとき、私たちのような小さな群の中でも、各自の生活がとても違うことに注目しなければなりません。それぞれ年令も性別も異なり、家庭の背景も違います。また職場、学校も勿論ばらばらです。つまり、私たちひとりびとりが、自分に特有と思われる環境の中で生きているのです。
そして、現実の私たちを大なり、小なり支配する力は、政治的力関係、経済的仕組です。こうした現実の中で、復活の信仰に生かされていくのです。各自が、それぞれの持場立場にあって、自分にあった信仰の戦いなくして、それは全く不可能です。私たちは、コリント人への手紙第一の十五章に示されている全体の姿を見失うべきではありません。同時に、ひとりびとりの固有な戦いを通して、復活の信仰は現実なものとなっていきます。浜野さんも、師岡さんも。私たちも。

残された生涯のテ−マ
 この復活信仰は、沖縄において、さらに深められたのです。
2009年9月4日(金)中嶋聡医師との診察室での診断・対話の間に、残された生涯のテ−マ、その中心点と概要が心に明確に浮かんだのです。

中嶋聡兄は、なかまクリニック院長、宮村の躁鬱の主治医。また宮村の牧師であった首里福音教会の教会員であり役員、何よりも神の御前における、人間と人間の20数年年にわたる交流を、沖縄を離れた今も重ねています。
中嶋兄は、宮村武夫著作1『愛の業としての説教』の帯に書いた下さった推薦文で、以下のとおり記して下さっています。
 「宮村先生は首里福音教会牧師時代、私たち教会員に、『持ち場立場でのそれぞれの活動が牧会である』と言われました。みことばに堅く立ち、それぞれの現場を大切にし、現実現場に即してものを考えようとする姿勢です。
 ご自身の持ち場・沖縄を人一倍愛しつつ、曖昧な妥協を嫌い、先入観にとらわれずに社会や歴史を判断する強さをお持ちです。そんな先生の著作集に心から期待しています。」

残された生涯のテ−マ・「私たちのからだの復活」、その中心点と概要は、以下のもの。
[1]概要・アウトライン
(1)ロ−マ8章23節の味読・読身読
「そればかりでなく、
御霊の初穂をいただいている私たち自身も、
心の中でうめきながら、
子にしていただくこと、
すなわち、
私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」の徹底的な味読・身読。

(2)少なくとも救済論的には、使徒信條の頂点・まとめである、「・・・罪のよるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。ア−メン。」の掘り下げた理解。

[3]方法論、二つの対話を通して
(1)歴史的には、エイレナイオスとの対話を通して
①今までの学びの回顧・まとめをしながら、『異端駁論』に見る対グノ−ス主義との対決の追体験
②明確な自覚をもった今後の学びと表現

(2)私の愛するルカたち・心から信頼する・同僚医師の群れとの対話を通して。
この場合各自との個人的な対話と同時に、群れの中での多様な、また全体的な対話。

 その後、2009年12月18日の脳梗塞発症と3箇月の入院生活により、人間・私・からだの徹底的な自覚。
 さらに私たちのからだの復活を中核とするリハビリ神学への道への営み。