「本当の休み」『礼拝の生活』その125
1973年4月15日
『礼拝の生活』125号
(巻頭言)「本当の休み」
最近、考えされられていることがあります。
それは、キリスト者の生活のリズムについてです。マタイの福音書11章28−30節などを通して特に教えられていす。
主イエスは、私たちに呼びかけてくださいます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11章28節)と。ここに真の休みの道が示されています。本当に私たちを愛し、私たちのために死と罪に打勝たれた力ある方の中に休むことを知るとき、とても積極的な生き方へと招かれます。
それは、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11章29-30節)との、キリストの十字架にあずかる道です。
私たちが本当に積極的な道を歩めるかどうかは、本当に休むことができるかどうかにかかっていると深く反省させられます。生ける主のみ前で、幼な子のように、喜びをもって賛美する。この単純な、しかし重大なことを忘れては、ただ疲れ切ってしまいます。
「まことに私は、
自分のたましいを和らげ、静めました。
乳離れした子が母親の前にいるように、
私のたましいは乳離れした子のように
御前におります。」(詩132篇2節)
この主なる神に対する信頼の中に真に休むことを、もう一度深く学ぶ必要があります。主のしもべでして生きるために。
☆40年後の今の「喜びカタツムリの歩み」への一貫した導きです。
「ゴルゴダに
担われ進む カタツムリ
イザヤ書46 章3.4 節
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う 。
わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。」
ゴルゴダを
担いて歩む カタツムリ
マタイ11 章28.30 節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って 、
わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです。」