『再びヨナに主のことばが』

2012年8月26日
聖望キリスト教会 主日礼拝
ヨナ書3章1、2、10節 

『再びヨナに主のことばが』

御父、御子、御霊、生ける三位一体なる神の御名を讃美します。
[1]序 
4月から読み始めたヨブ記、今朝は前半の1,2章から、後半の3章へ進み、『再び、主のことばがヨナに』の主題で、1,2節、そして10節に焦点を合わせます。
来月は、『ヨナは、主のことばのとおりに』の主題で、3章3−9節を味わいます。

まず3章全体について、二つの点を確認します。
(1)一つは、ヨナ書全体の構成の中で、3章の位置です。
 1章では、神のことばから逃れるヨナの姿が描かれていました。
2章全体は、そのヨナの祈りです。ヨナの存在・生涯と祈りは、決して切り離せません。
3章では、ヨナの祈りを通しヨナへ再び神のことばとヨナのニネベ宣教とその結果。
4章では、この恵みの出来事についてのさらに深い徹底的な理解への道。

(2)基本の確認。3章1節と2節そして10節に見る主なる神の先行的な行為とことばが基盤。その枠組みの中で、3−9節にヨナの言動とニネベの人々の応答を描いています。

[2]「再びの神」、3章1、2節
(1)3章1節
「再びヨナに次のような【主】のことばがあった。」
①「再び」
 1章の現実にもかかわらず、2章の経過を用いて、「再び」なのです。
聖書の神は、「再びの神」なのです。
新約聖書においてもペテロの実例を見ます、ルカ22章32−34節。
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。
しかし、イエスは言われた。『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』」

②「主のことば」がすべての出発点であり、出来事を生み出す原動力。

(2)3章2節
「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」
だれでもない、この「わたし」がと強調しています。
1章1節との比較。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」。この主の御心が成就した様を3章で描かれています。

[3]「再びの神」について、3章10節

3章3−9節に見る出来事の根源的理由であり、3章の中心です。
聖書の神は、人の思い、考えや概念とは違います。
まさに天地を創造なさり、万物を統治なさり、私たち各自を母の胎内に形造り支えておられる生けるお方です。
(1)神は「ご覧になった」
 直訳は、「神は、彼らが自分たちの悪の道から立ち返ったという彼らの行動をご覧になった」(服部嘉明先生)。

(2)神は「思い直して」
エレミヤ18章7、8節、「わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、 もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。」
「変わることがない」(マラキ3章6節)、真実な神の憐れみです。

(3)神は「そうされなかった」
 神がなさるすべてのことごとと共に、「そうされなかった」ことも恵みです。
この3章10節に示される憐れみ・恵みは、4章11節に見るヨナ書の頂点へと。

[4]集中と展開(1)集中
 ヨナ書に見る、「再びの神」の救いの御業は、聖書を貫く再創造と再生の恵みそのもの。
「しかし神は」。しかしの前に何が来ても、神の恵みの御業・恵みの事実が確実に勝利。

(2)展開
「再びの神」の慰めと励ましを受けて、私たちも失望・絶望と高慢からの解き放たれ、ヨナと共に、「再び」の道・リハビリの喜びの波紋の広がりの中を、いつでも、どこでも