「奥多摩町で夜の集会」「礼拝の生活」再考その74

1972年1月30日
「礼拝の生活」74

(巻頭言)「奥多摩町で夜の集会」

 昨年以来奥多摩町で、日曜の午後に集会が持たれて来ました。
担当執事の木村執事、犬塚修神学生(東京キリスト教短期大学)を中心に、子供のための集会が守られ、また地道な家庭訪問がなされてきました。午後の集会も、子どものために対象を限っていたわけではありません。しかし実際には子どもの集会になっていました。そこで月に一度夜の集会が持てたらとの願いが生じ、この数ヶ月祈を重ねてきたのです。
 
いよいよ、2月12日(土)、13日(日)午後七時から八時半まで、氷川生活館で夜の集会を開こうとしています。寒さの厳しい季節です。このような時に始めるのも、意味深いことで、目の前の現象に左右されずに、私たちに与えられた使命として、この集まりを計画してきたのですから。
 
私たちの教会にとって大きな課題であり、実際的な犠牲をも意味するこの集会のために、教会全体として祈り協力していきましょう。
私たちの伝道の方法が、最善のものでないことは確かです。いろいろな困難に直面したり、失敗を繰り返しているように見えるときもあります。そうした中で、じっくりと歩みを続けたいものです。
 
パウロがコリントの町で宣教する際、心の中を明かして、
私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした」(Ⅰコリント2章1節)と語っています。
さらに「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」(Ⅰコリント2章2節)と明言しています。
私たちも同じです

氷川生活館は、奥多摩氷川神社の境内にありました。
その場所で、犬塚修神学生の忠実な働きで、教会学校の集いが定期的に開かれていたのです。
犬塚神学生は、私が1969年東京キリスト教短期大学で最初に授業を担当した1年生のクラスの一員で、佐賀県の佐賀バプテスト教会の出身。
 
 奥多摩の2月、一番条件の悪い時に開始すれば、条件が悪くなったからと言って、集いを中止しないに違いないと、今思えば極端な私の提案を、犬塚神学生は受け止め実行したのです。
 それは、氷川神社の境内氷川生活館半地下の一室で誰も出席者のない中、分単位で進行するように綿密に準備された説教原稿を一人読む、壮烈な営みでした
犬塚修牧師は、神奈川県平塚で、日本バプテスト連盟ふじみキリスト教会の牧会に専念、今はご子息の契牧師へバトンが渡され、背後で協力されています。

 犬塚神学生を通して、私は、彼の母教会の牧師・加来国生先生に出会いました。
加来牧師から、早天祈祷会の重要性と「保線夫として」の生き方(宮村武夫著作Ⅰ『愛の業としての説教』62頁以下)を私は学びました。 また犬塚神学生のあの経験から、私なりに心に思い定め続けて来たことがあります。
①継続する覚悟がないことは、始めない。
②始めたことは、継続する。

1972年1月、奥多摩の夜。
2012年8月喜びカタツムリの歩み、
そして・・・。