最後の敗者復活『礼拝の生活』再考その52

1971年8月8日
『礼拝の生活』52号

(巻頭言)「ゆりのように花咲き」

表題の言葉は、ホセア書14章5節の聖句です。
「わたしはイスラエルには露のようになる。
 彼はゆりのように花咲き、
 ポプラのように根を張る。」

イスラエルの民が主なる神に立ち返り、罪を告白するとき、恵みに富み給う神は、イスラエル背信をいやし、彼らを愛されるのです。
そして神の恵みの中に生かされるイスラエルの様をゆりのように花咲きと歌うのです。
奥多摩バイブルキャンプ場の周囲には、今、ゆりの花があちらこちらに咲いています。
そのゆりをみながら、「ゆりのように花咲き」とのホセア書の言葉を改めて考えさせられました。ゆりを見てつくづく感じさせられるのは、ゆりは全身をもって花を咲かす一事に徹している事実です。一本のゆりが全精力を全存在を集中的注ぎ込んで一心に花咲かしています。その徹底さに、厳として動かしがたいきびしさをしみじみ感じます。
 
イスラエルの生き方は、ゆりのように花咲く生き方。
新しいイスラエルである私たちの生き方も、ゆりのように花咲くものです。

徹するのです。
一生懸命になるのです。
無理だと思われるほど一事に徹し、
全身をもって与えられた使命に生きるのです。
 
しかもです。
野のゆりがどうして育つのかよくわきまえなければなりません(マタイ6:28)働きもせず、紡ぎもしません。
しかしきょうはあっても、あすは炉に投げこまれる野の草さえ、神はそれ程に装ってくださるのです。

徹することも、一生懸命も、無理も、犠牲も、ただ主なる神御自身の装いの中にあってのみ、意味があるのです。
 ゆりのようにきびしく、ゆりのように自然に、神の恵みの中に花咲く教会と個人。

2012年7月13日・先週の金曜日、週一度通う市川市行徳のクリニックのリハビリ・スタッフ数名が立ち並んで治療開始に備えている待合場所の前を、いつものように通り過ぎました。
いつも黙って通り過ぎることはまずないので、そのときも、

「立てば芍薬(しゃくやく)
 座れば牡丹(ぼたん)
 歩く姿は百合の花」と、言語療法の効果を誇るように、はっきり語りかけたのです。

 「なにそれ」との反応の聞こえる中で、
「私たちが美人だと、宮村さんが励ましてくれてるのよ」と、一人が花にたとえた言い回しを的確に捉えて、その場を一瞬和ませてくれました。

 40年前、ホセア14章5節とマタイ6章28節の結びから、「ゆり」の存在と一つ単語「ゆり」の豊かさを味わい、伝達しようとしていた意図を確認しました。
問題は、この40年です。聖書の豊かさの大切な一面である聖書の各部分相互の有機的関係に十分な注意を払い続けてきたか。
その営みの実として、単語一つにも深い内容のある事実を受け止め、そのように伝える営みをみことばを宣べ伝える者の一人とどれだけなし続けてて来たかを考え、忸怩(じくじ)たるものがあります。

突然ですが、遅ればせながら試み始めていることが、二つあります。
一つは、ことわざに対する関心、実際的には、ことわざ辞典の活用。
もう一つは俗語の生き生きとした伝達力に対する尊敬。
私の場合、潜在意識の奥深くに潜む東京下町の語彙・語感の顕在化。

 沖縄に25年生きた恵みとそれを生かし切れなったと自覚する者として、最後の敗者復活戦にかける、ささやかな決意です。