回顧と展望の原点を共有して

回顧と展望の原点を共有して
日本長老教会玉川上水キリスト教会牧師 清水武夫

 私は宮村武夫先生にはいろいろな形でお世話になりました。先生がアメリカでの学びを終えてお帰り
になったときには、私は入れ替わるような形で、日本クリスチャン・カレッヂを卒業しましたので、残念ながら、先生から直接的に教えを受けることはありませんでした。
私が先生にお会いできたのは、先生との共通の恩師である渡邊公平先生が先生のことをご紹介くださったからです。渡邊先生は、ただ宮村先生と引き合せてくださっただけでなく、宮村先生が、渡邊先生の教えておられたキリスト教弁証学の根本的なことをよく理解しておられて、それをアメリカでの学びの中で生かしておられるということを、繰り返し語ってくださいました。
 
私が理解しているかぎりでは、渡邊先生のキリスト教弁証学の根本には、形而上的・心理的なことと、認識的・倫理的なことの区別と関係がありました。これは、アブラハム・カイパー(Abraham  Kuyper, 1837−1920)やヘルマン・バーフィンク(Herman Bavinck, 1854−1921)など、オランダの改革派教会の神学的な思索の中で自覚されてきたことであると言われていますが、渡邊先生は先生の恩師のひとりであるコーネリウス・ヴァン・ティル(Cornelius Van Til, 1895−1987)から学ばれました。
 
かつて私は、日本長老教会東京中会教育委員会から、信徒学校において渡邊先生の思想を紹介する講座の講師要請を受け、先生から学んだことを生かして記した『信仰と科学の基本的整理』を基に、お話をさせていただきました。これは後に、『信仰と科学 −その基本的整理』として、出版されました。

その際に、序論的な部分に、私が渡邊先生のキリスト教弁証学の根本にあることを理解するようになった経緯を「公園での出来事」として掲載いたしました。二〇一一年の夏、宮村先生が教会を訪問してくださったときに、この小冊子をお渡ししました。先生はそれをお読みくださり、「公園での出来事」で記した渡邊先生の弁証学の理解こそが、まさしく、宮村先生が理解しておられることであることをお伝えくださいました。ここに再録して、宮村先生と共有させていただいている渡邊先生の思想の根本にあったことをあかしさせていただくことにいたします。

公園での出来事 
 夏の日の夜、涼しくなってきたので、近くの公園に行って、ベンチに腰を掛けました。自然と、数日間考え続けていた、一つのことばが心に浮んできました。それは、この世界には、「絶対的意味において、無神論的なものはない。
……無神論的世界もなく、無神論的民もなく、また、無神論的な人間もない」という、 H・バーフィンクのことばです。深く考え込んでいたわけではありませんが、突然、後ろの方から、別の光が射してきたような感じがして、心の奥底から、「そういうことだったのか」という深い納得のようなものが、静かな感動と喜びとともに沸き上がってきました。それと同時に、公園の灯に照らし出されていた木々が、それまで見ていたのとはまったく違った意味をもつものとして、目の前に立ち現われてきました。
 
一九六五年の夏、私は神学校(日本クリスチャン・カレッヂ)の二年生の夏休みを、故郷に帰ることなく、寮に留まって過ごしました。夏休みの間、寮に留まるためには特別な許可が必要でした。そこまでして寮に留まったのは、渡邊公平先生の「哲学概説」のクラスのテキストをがり版印刷するためでした。ある日、テキストの原稿を渡されたときに、渡邊先生が、そこに引用してあった、先ほどのバーフィンクのことば、この世界には、「絶対的意味において、無神論的なものはない。
……無神論的世界もなく、無神論的民もなく、また、無神論的な人間もない」ということばを指さして、それがどのようなことを意味しているか分かるかとお尋ねになりました。

その時とっさに、次のことを考えました。当時、中国では、毛沢東の神格化が進んでいました。どんなに無神論的な立場を取る国家や民族であっても、あるものを神格化してしまうということを考えたのです。また、無神論を唱える個人であっても、無意識のうちに「神」に当たるものをもっていて、それに頼り、それに献身している
ということも考えました。偶像を拝んだり頼ったりすることはもとより、自分の勤めている会社を神格化して、それに頼り、それに献身しているようなこともあります。それで、そのようなことをお答えしようかと思ったのですが、それでは、あまりにも「ありきたり」の答えです。おそらく、それよりもっと深い意味があるに違いないと、直感的に感じました。
 そのバーフィンクのことばは、「この世界には、無神的なものはない。
……無神的世界もなく、無神的民もなく、また、無神的な人間もない。」と表わせば、より分かりやすくなると思います。バーフィンクの「絶対的意味において、無神論的なものはない。 ……無神論的世界もなく、無神論的民もなく、また、無神論的な人間もない。」ということばには「絶対的意味において」ということばがあります。

私は、バーフィンクの言う「絶対的意味において ……無神論的」ということは「無神的」という意味であると理解しています。私流に言い直した表現では、「無神的」ということと「無神論的」ということを区別しています。「無神論的」ということには「論」ということばがありますが、「無神的」には「論」ということばがありません。これがあるかないかで、大変な意味の違いが生まれてきます。
この「論」ということばがある場合とない場合の違いのもう少し分かりやすい事例は、「終末的」と「終末論的」ということばの区別です。「終末的」なことというのは、文字通り、世の終わりに起こることを指しています。具体的には、御子イエス・キリストの再臨と、それに伴って起こる死者のよみがえりと最後の審判、そして、贖いの恵みによる、神の子どもたちの救いの完成、さらに、新しい創造による、新天新地の完成などのことです。これに対して「終末論的」と「論」をつけていうことは、今ここに生きている私たちのものの見方や考え方、そして、それに基づいて生きる姿勢のことです。私たちが、終末において起こる、イエス・キリストの再臨と、それによってもたらされる最終的なさばきと、贖
いの恵みによる神の子どもたちの救いの完成、そして、新天新地の完成があるということを、信仰によって見据えて、それとのかかわりで、今ここでの私たちのものの見方と考え方、生き方を決定していくことを、「終末論的」と言います。
今はまだ世の終わりではありませんので、私たちの経験は「終末的」ではありません。しかし、私たちは世の終わりがあることを信じていて、そのことを踏まえて考え方と生き方を、それにふさわしく整えています。そのような考え方や生き方が「終末論的」なのです。
 
これと同じように、「無神論的」というのは、その国家や民族や文化や個人のものの見方と考え方、そして生き方のことで、それが「神はいない」という、「無神論的」な信念に基づいていることを意味しています。この世界には、この意味での「無神論的」な国家や民族がありますし、「無神論的」な社会や個人もたくさんあります。言うまでもなく、この場合、「神はいない」という、「無神論的」な信念をもっている人が、必ずしも、自分がそのような信念を持っていることを自覚しているわけではありません。

これに対して、「無神的」ということは、実際には、そのようなことはありえないのですが、その存在そのものが神と関係がないということです。この世界のすべてのものが神の創造の御業によって造られ、神の御手によって支えられているのであれば、この世界のすべてのものは、神との関係において存在しています。その意味で、この世界には「無神的」なものはありえません。
当時、中国やソ連は「無神論的」な立場を取っていました。
 しかし、それは、「自分たち」が自覚的に取っている立場のことです。「自分たち」がそのような立場に立っているからといって、それで、その国々が造り主である神によって造られて、神の御手によって支えられている人々の集まりであることがなくなってしまうわけではありません。すべての人が神によって造られた者の子孫であり、神の御手によって支えられています。
 ですから、「無神論的」な立場を取っている人々も「無神的」ではありえません。神の御手に支えられていながら、「神はいない」という信念に従い、「無神論的」な立場を取っているだけなのです。そして、その立場に沿ったものの見方と考え方を展開し、それに従って生きているのです。
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 神の御手によって支えられて存在している人間が、自覚的であれ無自覚的であれ、「神はいない」という信念に従い、「無神論的」な立場に立って自分と世界のことを考えること、そして、それに沿って生きることが、罪の最も根本的な現われです。私は、このことに気がつく前は、罪とは、偶像礼拝のような宗教的な悪や、ウソをつくとか、人を傷つけるとかいうような、道徳的な悪である、というような感じ方をしてきました。もちろん、それが具体的な行いになって見える形で現われてこなくても、心の中に罪深い思いがあることにも痛みとともに気がついていました。

しかし、このことに気がついてからは、偶像礼拝や、道徳的に悪いことを考えたり、行なったりすることは罪の典型的な、その意味で、最も分かりやすい現われではあるけれども、それが罪のすべてではないことに気がつきました。
 たとえば、ごく日常的なこととですが、ある人が、一本の花を見て「きれいだ。」と言ったとしましょう。それは、宗教的にも、道徳的にも、なんら問題はありません。それで、普通に考えると、その人が罪を犯しているというようなことは考えられません。
 しかし、もしその人が、自分では自覚していないかも知れませんが、「神はいない」という信念に従い「無神論的」な立場に立っているとしたらどうでしょうか。その人は、その花の存在を支えておられる造り主である神を認めることはありません。その花の美しさに触れていながら、その花を美しく飾っておられる神と、その美しさを感じ取ることができる能力を自分に与えてくださっている神を認めることはありません。それは、その人
のものの見方と考え方と感じ方の最も深いところに巣くっている罪です。
 ですから、罪によって、その心が造り主である神から離れてしまっている状態にある人は、一本の花を見て、その美しさに感動することをとおして、自分の「無神論的」な立場を表現していきます。その意味で、造り主である神を神としないという根本的な罪を犯しています。
 それと同じように、人は、神の一般恩恵に基づく御霊のお働きの支えのもとで、様々な文化的な活動を展開しています。そのすべては、神の御手のお支えによっています。その人の存在そのものも、そのような活動をする能力も、みな神によって支えられています。

 別の例を挙げますと、私たちが簡単な算数の、「一足す一は二である。」という計算をすることができるのも、この世界が秩序ある世界として造られており、人間が数の観念をもつものとして造られているからです。このようなごく基礎的なことから、さまざまな分野での専門的な研究にいたるまで、人が学問的な営みをすることができるのは、造り主である神がこの歴史的な世界を秩序と調和のうちにあるものとしてお造りになり、それを今日に至るまで真実に支えおられるからですし、神のかたちに造られた人に学問的な営みをするための能力と、そのような探究をしようとする指向性を与えてくださっているからです。

 しかし、そのような神の御手によって支えられている人々自身が、必ずしもこのことを自覚しているわけではありませんが、「神はいない」という信念に従い「無神論的」な立場に立って、それに沿ってすべての活動をしています。それで、その活動は「神はいない」という信念に従う「無神論的」な立場の表現となっています。それは、単なる自己表現ではありません。「神のかたち」に造られている人は、自覚的に神との関係において生きるものとして造られています。それで、その活動は、神に向かっての「応答」としての意味をもっています。その「応答」において、「神はいない」という信念に従う「無神論的」な立場を表現しているのです。

 私は、この「公園での出来事」を経験するまでは、何となく、このような学問的な営みは、罪とは関係がなく、クリスチャンにも、そうでない人々にも共通したものであると思っていました。そして、それを悪用すれば罪となり、善いことに使えば、善になるというように思っていました。しかし、表面的にはそのように見えますが、「公園での出来事」を経験してから、より根本的なところで、造り主である神の御業によって、これらの営みのすべてができるようになっているのに、そのことを認めることなく、学問的な営みをしているという、罪の現実が、あることに気がつきました。これらの学問的な営みを初めとする、さまざまな文化的な活動は、決して、宗教的、道徳的な罪を犯すことではありません。むしろ、文化的な価値を生み出すことであるでしょう。しかし、その人は、より深いところでは、その活動をとおして、自分が、造り主である神を神としていないことを表現しています。その意味で、その人は、根本的な罪を犯しています。
このことは、花を見ることや、様々な文化的な活動をすることだけでなく、もっと日常的な、飲むことや食べることにも当てはまることです。

 あの夏の夜、公園のベンチの上で、この世界には、「絶対的意味において、無神論的なものはない。 ……無神論的世界もなく、無神論的民もなく、また、無神論的な人間もない。」ということばの意味と重さを悟ったとき、それまで何気なく見ていた公園の木々が、突然、それまでとはまったく違った意味をもつものとして、目の前に立ち現われてきたのは、この木々も、決して「無神的」なものではなかったのだという悟りによることでした。
 もちろん、そこにある木々には意識がありませんから、その木々が「無神論的」な立場や、その逆の「有神論的」な立場を取ることはありません。
しかし、その木々は「無神的」なものではなかったのです。言い換えますと、その木々も、「有神的」なもの、すなわち、神の御手の作品として、造り主である神との関係において存在しているものだったのです。

 一般化して言いますと、この世界とその中のすべてのものは、「有神的」なもの、すなわち、造り主である神との関係において存在しているものです。また、人間のさまざまな文化的な活動も、たとえそれが無神論的な立場に立ってなされていても、決して、「無神的」なものではなく、「有神的」なものです。
 人間は、そのような「有神的」な世界に住んでいて、「神のかたち」に造られています。そして、自覚的に神との関係を考えるものとして造られており、そのための能力と自由な意志を与えられています。それで、人間は、宗教的なことや道徳的なことだけではなく、一本の花を見ることにおいても、飲むことや食べることにおいても、神に対して「応答」しています。そして、罪のために心が神から離れてしまっている人は、その花を見て「きれいだ」と言うときに、「神はいない」という信念に従い、「無神論的」な立場に立って、神に応答しています。
 それに対して、イエス・キリストの贖いの恵みによって、神と和解させてていただいている神の子どもたちは、その一本の花の美しさを見るときに、造り
主である神に心を向けて、神の御業とそのご栄光を仰ぎ見る形で応答します。飲むことや食べることにおいても、そのようにします。
 
 私は「公園での出来事」を経験してから、それまで、自分とこの世界のすべてのことを、このように見てこなかった罪を悔い改めました。言い換えますと、私は、神を信じた後にも、自分も含めて、人間と神との関係を、狭い意味での宗教的な面や道徳的な面だけに限って理解していたということを、悔い改めたのです。それは、私の神の子どもとしてのものの見方と考え方、そして、それに基づく生き方の「コペルニクス的な転換」を意味していました。
 それとともに、「そうか、私は、ただ『有神論的』な立場を取っているだけではないのだ。私自身の存在も含めて、この世界のすべてのものが、決して、『無神的』なものではありえない。いやむしろ、この世界のすべてのものは『有神的』なものである。私は、その根源的なこととの調和において、『有神論的』な立場に立っているのだ。」ということを、深い納得とともに自覚し始めました。そして自覚的に、「有神論的」な立場に立って、自分と世界を理解するようになりました。
 
あの「公園での出来事」の時、私は、まったく新しい意味をもったものとして立ち現われてきた、公園の木々を見ながら、神の御臨在に触れる思いでした。深い感動と喜びが、私を包んでくれました。それは、半世紀近く経った今も、私の心の奥深くで静かに燃えている感動であり喜びです。
 
 以上が、「公園での出来事」のあかしですが、いくつかのことを省略し、補足・修正をしています。
 
 宮村先生は申命記の主題を回顧と展望として捕えておられます。私自身も、折に触れて、自らの思索と歩みを回顧し展望してきました。私にとりましては、この回顧と展望には、変わることがない原点があります。それが、これまで記してきました、形而上的・心理的なことと認識的・倫理的なことの区別と関係という、渡邊先生から学んだ弁証学の基盤にあることです。これは個人的な歩みの回顧と展望の原点であるだけでなく、神が創造の御業において造り出されたこの歴史的な世界のうちにあって、この世界の歴史を回顧し展望するための原点でもありますし、神の創造の御業と贖いの御業を貫くみこころを、歴史的に回顧し展望するための原点でもあります。
 宮村先生がこのことを共有してくださっているということをあかししてくださったときに、私は自分がこの著作集の中の『申命記』に寄稿させていただいたことのより深い意味を汲み取らせていただきました。