『礼拝の生活』再考、その8

1970年7月19日、『礼拝の生活』第7号

(巻頭言)「信じ、考え、生きる」
「先週の主日午後、青年会の集会がありました。
内村鑑三の「後世への最大の遺物」をテキストにした読書会でした。
参加者各自の著者に対する感想を聞きながら、幾つかのことを改めて教えられ、とても意味深い時でした。
 
改めて教えられたことの一つは、キリスト者として信じ、考え、生きる事実の意味です。
 キリスト者は信じる者です。信じるというとき、信じる者における心の態度ばかりでなく、何を信じるか、何が信仰の対象であるかがより大切な問題になります。
キリスト者にとってはどうでしょうか?最も短く表現すれば、「唯一の、生ける、真の神こそ、主」であるとの信仰告白です。
内村鑑三の言葉に従えば、「此の世の中は是は決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であると云う事を・・・信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを・・・信ずることである」(岩波文庫版P51)と表現されている一点です。私たちは、種々の事実を毎日見聞きします。しかし聖書を通して、もう一つのより根本的な事実、神の恵みの事実に直面させられます。さらに神の恵みの事実を単に一般的な事実として認めるだけでなく、この私に直接かかわる事実として認めること、それが、キリスト者にとり信ずる意味です。
 
キリスト者は考える者です。聖書の宣言に基づいて神の恵みの事実を見つめ続け、あらゆる現実をその基盤から考える者です。キリスト者は、聖書の宣言を土台としながら、世界について、人生について考えます。自分の家族、仕事、その他あらゆる事柄を、神の恵みの事実に目ざめさせられながら考え続ける者です。
 
キリスト者は生きる者です。この点を、内村鑑三は、「この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるといふ考えを我々の生涯に実行して、其の生涯を世の中の贈り物として此の世を去るといふことであります」(P51)と明確にのべています。ですから、キリスト者にとって此の世のすべての事柄が信仰の問題です。神の恵みの宣言を信じ、すべてを考え、世界のあらゆる場面で生きる、これが生きる者、キリスト者に与えられた礼拝の生活です。青年会を通して、この事実を改めて教えられました、感謝。」

★ 戦前版の古い内村鑑三全集を、日本クリスチャン・カッレジの2年生のとき、カマボコ兵舎の図書館で見つけ出し読み始めました。すべてが手探りの状態の中で、心の深く惹き付けるものを実感しながら読み進め、教育学レポート『教育者としての内村鑑三』(宮村武夫著作1『愛の業としての説教』P166−201)を書き上げました。
  昨年5月沖縄から持ち帰った数少ない書籍の中に、新しい編年の内村鑑三全集は加えました。本箱から日記3巻と書簡3巻を取り出しより身近な位置に置き換えたところです。
日記と書簡の重視、50数年前と全く同じです。「信じ、考え、生きる」者の一人として。