『センド・派遣をめぐって』

『センド・派遣をめぐって』
                      ヨハネ20章19−23節 
1.序 
 本プログ投稿を含め総主事として、日本センド派遣会の働きを続ける中で、時々質問されることがあります。
日本センド派遣会の「センド」とは、どういう意味かと。
それで一応、「センド」は、「Send・派遣」の意味ですと答えます。
しかしそれだけでは、質問に真に答えたことにならないと自覚しています。
そこで、『センド(派遣)』をキーワードに全神学を見通す試みを少し進めてみたいと覚悟を決めています。
まず最初に、二つの点を取り上げたいのです。
一つは、興味深い聖書箇所としてヨハネ20章19−23節を注意する必要。

二つは、どれほど強調しても強調しすぎることのない大切な恵みの事実、「聖霊の派遣」の指摘。また課題を深く掘り下げるための手引きとして、一つの本の紹介をしたいのです。

2.弟子・教会の派遣
 50年近く前・1963年秋、ボストン近郊にあるゴ−ドン神学院で留学生活を始めた際、本格的な新約学の学びの手引きをしてくださったのは、ラムゼイ・マイケル先生でした。
 マイケル先生から、その後も新約学の学びを続けるなかで深く豊かな影響を受けて来ました。先生の母校ハ−バ−トで私が新約学を専攻する上でもお世話になりました。また私のような者に対して、自分が教えた学生の中で最も優れた学生の一人だと公言し、励まし続けてくださっているのです。
 そのマイケル先生から学んだ具体的な事柄で、現在も記憶に鮮やかに残ることが少なくありません。
 その一つが、ヨハネ20章19−23節ついて先生が指摘なさったことです。
ルカの使徒の働き2章のペンテコステの記事に対して、この箇所はヨハネのそれなのであるとして、両者に等しく意を注ぐ必要を強調なさいました。
単に総合するだけでなく、両者を比較しながら、両者に共通する類似点に注目。同時にそれぞれが示す特徴も十分に見定めて、両者の区別(性)をしっかりと把握するようにと恩師は手引しててくださったのです。いや今も手を引いてくださっています。
 
その懐かしい思い出に心満たされながら二つの点だけ取り上げたいのです。
ヨハネ20章21節後半
 「父がわたしを遣わした(つまり派遣した)ように」
 「わたしもあなたがたを遣わします(つまり派遣します)」
 父なる神が主イエスをこの世に派遣なさった事実と
 主イエスが弟子たちを派遣なさることが並列的に宣言され、記録されています。
 前者が後者の基盤となっており、支えています。

ヨハネ20章22節
 「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。
 『聖霊を受けなさい。』」

 主イエスと最も密接な関係にある聖霊ご自身(キリスト論と聖霊論のこの上ない深い関係)が、上記の弟子の派遣の前提として無比の役割を果たしている事実。

 ここでは、以上の二点を確認するだけに止めたいのです。

3.聖霊ご自身の派遣
 上記のうちで、
ヨハネ20章22節
 「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。
 『聖霊を受けなさい。』」

 この節にも十分注意を払う必要があります。
主イエスの父なる神からの派遣
主イエスによる弟子たちの派遣
この両者の派遣に加えて、聖霊ご自身の派遣について考える必要が浮び上がり、私たちなりに考察する必要があります。
 その際、一つの有効な助けとなる本を紹介したいのです。
高崎毅志 『カルヴァンの主の晩餐による牧会』(すぐ書房、2000)です。
 今は主のもとに帰られた高崎牧師が沖縄市の美里教会で牧会されていた数年間、カルヴァンの『キリスト教綱要』またバルトの書物と伝記を読み進めながら、沖縄で小さな群れが共同の学びを重ねました。私もメンバーとして加わり、それなりの役割を果たした幸いな思い出があります。

 私たちの目的に従って、高崎牧師から学ぶ中心は、著書全体が四部に分けられている中で、第二部からです。
高崎先生は第二部を、
「『キリストの昇天』による聖霊の派遣と教会の派遣」との題を与えています。
続いて、
第三部 聖霊の派遣と「キリストとの交わり」について
第四部 教会の派遣と伝道についてのカルヴァンの概念

 以上の流れを見ただけでも、聖霊ご自身の派遣の恵みの事実を、どのようなこととして受け止め、またどのように考察しているのか推察できます。
そしてそのような営みをなすのはなぜかも浮かび上がってきます。
そうです。なぜか。著者高崎先生のなぜか・意図・神学の大筋を把握できるのです。

4.結び 
 最後に、一つの点を取り上げたいのです。
 派遣し派遣されて、何を語るのか。
そうです。福音の理解とその宣教の課題です。
救いの内容をどのように考えるか、救済論が要になります。
結論から言えば、広義の救済論です。その内容は、「からだの贖い」なのです。
四国松山の日本宣教会の機関誌に、以下のような短文を書きました。そこで取り上げている課題です。今回の結びとしてお伝えします。

         「一枚のポスター」 
       ー松山の万代牧師と八尾の堀内牧師ー
[1]序
(1)2008年3月17日と18日の二日間、大阪は八尾、グレ−ス宣教会の堀内顕牧師を訪問しました。そして二人がそれぞれに敬愛してきた万代恒雄牧師について語り合い、さらに聖書が提示する救済の豊かさをめぐり心を熱くして対話する格別なときを与えられたのです。
 上記の恵みに先立ち、2007年11月29日に八尾の堀内さんを訪ね、20年振りに再会していたのです。その際、話の流れの中で私が万代恒雄牧師に言及すると、
「万代君は、・・・万代君が・・・」と、堀内牧師が語りだされたのには、いささか驚きました。お二人が「君」呼ばわりをする親しい仲にあるとは、私は知らなかったのです。

(2)話は今から50余年前、1956年にさかのぼります。当時在学していた東京日暮里の高校で、私は一枚のボスタ−を張りだしていたのです。
 その年の3月キリスト信仰に導かれ、小岩アッセンブリ−教会に属していました。
 その頃教会で、T.L.オスボ−ン先生の宣教活動を伝える記録映画が紹介されていました。この映画を母校でも上映したいと私は願ったのです。そこで職員会議の許可をもらい、たった一枚のポスタ−を少々緊張しながら張りだしたという次第です。
 ところが、そのポスタ−を学内で聖書研究会を続けていたグル−プが見て、私に会いに来たのです。その後50年余、共にキリストに従う心の友となった吉枝兄など二、三名が。主の導きであったと今も理解します。学内で共に協力しようと互いに決断したのです。 
 その時から高校卒業まで、主日礼拝と水曜の聖研・祈祷会は、教会で万代牧師を通して力強く語られる御言の解き明かしに聴き入る。土曜日には、教会の高校生会の活動。
 この歩み加えて、高校の学内集会に毎週参加。そこでは、高校生への伝道に専念するHiBAの堀内顕さんが高校生と同じ視線に立ち聖書の教えを展開していたのです。
 聖研とは別の日昼休みに屋上に集い、アッセンブリ−の山田亘牧師の心のこもった指導で、校歌と応援歌しか知らない男子中高生たちが、讃美を心行くまで。

[2]万代牧師と堀内牧師、二人の主にある友情 
 1970年代半ば、キャンパス・クルセ−ドの金先生の招待で、日本人牧師たちが訪韓しました。そのとき、二人は韓国へ向かう飛行機で同席し、文字どおり出会ったのです。
 
(1)堀内牧師について万代牧師は
 「牧師なのに、ロ−タリ−クラブに加わり、社会の現場で積極的な証をしている堀内君。」
自分と同様、人々の評価などに左右されることなく、いつでも、どこでもキリストの弟子の道に徹する主僕仲間(黙示録22章8、9節)への同士愛が伝わって来ます。
 「面白い人だ、堀内牧師は」と、万代先生は話しておられたと君恵夫人からお聞きしました。「面白い人」との表現に、万代先生の堀内先生の言動に対する心の共鳴が響きます。

(2)万代牧師について堀内牧師は
 宣教活動において、いやしのために積極的に祈るように隣席の万代牧師が勧めてくれた。「十人のために祈り、一人いやされるだけでも宣教の進展に役立つ、二人いやされるなら、なおさらだ。三人いやされるなら、それは野球で言うなら三割バッタ−、大したものだ」と率直なことばをもって明言する親友を懐かしみつつ、堀内牧師は語るのです。
 またその時、万代先生がアフリカ・ケニア伝道について熱心に語ったことを堀内先生は心に深く刻んだのです。後年、日本国際飢餓対策機構の働きでアフリカ諸国を訪問した際、特別な思いで万代先生のアフリカ伝道を思い起こしたと、ことばを紡ぐ堀内牧師の姿を見ながら、お二人の心の交流の深さに思い当たるのでした。

[3]万代牧師と堀内牧師、二人に共通した「からだ」の重視
 堀内牧師にとって、「日本国際飢餓対策機構」の働きへの導きは、特別な意味を持ちました。
それまでは、伝道一心で、「人の営みの全体像をとらえていなかった」(『餓える世界と私たちの責任』3頁)と深い自覚を伝えておられます。
 万代牧師は、宣教・牧会において「いやし」を大胆に伝える、言わずと知れた、「いやしの伝道者。」
万代牧師と堀内牧師、日本有数の教会の牧会者二人が伝える福音は、「からだ」の重みをしっかり見据えた広義の救済論に根ざしているのです。
 この実例を考えるとき、使徒信條の最後の部分、「罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。ア−メン」において、「からだのよみがえり」が、「罪のゆるし」と「とこしえの命を信ず」の両者の中間に位置する事実に意を注ぐ必要があると覚えます。
 またパウロの救済の神学の最も代表的な箇所。ロ−マ8章18節から25節で、パウロが救済の事実を被造物全体を視野に置き展開している中で、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子としていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(23節)と、「私たちのからだ」に焦点を絞っている事実を見落とすことはできません。

〔4〕結び 
 松山を中心に豊かな福音宣教と教会形成を展開しつつ、主の御許に凱旋した恒雄牧師。
その働きは、子息の栄嗣牧師を中心に継承され、その上さらなる進展の事実を見ます。
 八尾を中心に、福音宣教と類まれなる教会形成において要の位置にあり、またその牧会と不可分な日本国際飢餓対策機構の働きのリ−ダ−、主の御手にある堀内牧師。
この二人が異口同音に提唱している、「からだ」の救済のメッセ−ジこそ、日本の教会が全力で探求すべき課題だ、そのように私は確信しています。