『礼拝の生活』再考、その6

1970年7月5日、『礼拝の生活』第5号

「夏季聖会を前に」
 今年も夏季聖会の案内が送られてきました。とても良く出てきた、美しい案内です。楽しみながら読まれたことと想像します。
夏季聖会が、一歩一歩充実していく様子を肌で感じることができて、本当に感謝です。夏季聖会の案内やプログラムを読みながら、幾つかの細かい配慮に気づかされました。

 主題聖句ユダの手紙3、4節を中心に、主題は、「唯一の君」。
主題の学び以外に、グループ別研修会に、大きな期待をもって備えたいものです。さらにグループ別懇親会は、より身近な課題をめぐって、自由なしかも真剣な対話がなされると確信します。

 このような夏季聖会のプログラム全体の中で、主日礼拝は特に深い意味を持っている事実を再確認する必要があります。
 普段異なる場所で公同礼拝を守っている諸教会の兄弟姉妹が、時と場所を同じくして、唯一の、生ける、あの神を礼拝するのです。口と心を合わせて、唯一の、生ける、真の神を礼拝する。これこそ、本来の日本新約教団の姿とも云えます。礼拝共同体としての生きた交わり、これが日本新約教団の存在理由です。

 日本新約教団は各教会の上にある上部団体であるかのような誤解が、ともすれば私たちの中に生じがちです。しかし日本新約教団は、各地域教会の上にある組織では、決してありません。日本新約教団は何であるよりも、唯一の、生ける、真の神を礼拝する生きた礼拝共同体です。毎主日、栃木、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡の各地で、唯一の、生ける、真の神を礼拝し続ける群々、そうした群全体を、私たちは日本新約教団と呼ぶのです。毎主日の公同礼拝ばかりではなく、毎日、それぞれの与えられた場で、主にあって生き、礼拝の生活を生きている主の民全体を日本新約教団と呼ぶのです。
 このような礼拝共同体としての新約教団は、あらゆる時代、あらゆる場所の制限を超越したキリストの体なる教会(公同教会)の一部分として活かされているのです。

 以上のことを、頭の中で考えるのは大切なことです。
しかし、夏季聖会に出席して、共に主を賛美し、共に主のみことばに聞き、共に食し、共に生活をすることを通して、全身全霊をもってキリストの教会の豊かさを体験すること、これは、さらに大きな恵です。
夏季聖会で、日本新約教団の本質が見えます。参加しましょう。

日本福音キリスト教会連合日本新約教団が参加する経緯の最初から一貫した意見を公言して来ました。その延長上で、『日本新約教団が目差したもの、その今日的意義』を、今後書き記す志の種を抱きます。青梅キリスト教会での日々を回顧する道を通して、小さな営みを継続備えが出きれば幸いです。