『礼拝の生活』再考、その7

1970年7月12日、『礼拝の生活』第6号

巻頭言『多くの小集会を』
「現在、私たちは、主日礼拝を中心に幾つか定期集会を守っております。定期集会、特に毎主日の公同礼拝がいかに大切なものであるかは、改めて強調するまでもない。主日礼拝は私たちの礼拝の生活の中心です。新しい週全体が主なる神のものであり、主なる神の恵みの中に生かされ、罪との戦いの中に生きるとの信仰告白を、私たちは主日礼拝を守る事実によって、明らかに告白するのです。
 
主日礼拝の他にも、早天礼拝、夕拝、聖書研究、祈祷会などの定期集会があります。
早天礼拝は、主日の朝6時からもたれる賛美、聖書の学び、祈りを中心とした集会です。
夕拝は、月曜日からの働きを前に、賛美、あかし、信仰告白の学びを中心とした落ちついた親しみ深い集会です。
さらに水曜日の聖書研究・祈祷会は、聖書の学びと祈りに集中する、とても大切な集りです。それぞれの定期集会は、聖書の学びを中心としながら、それぞれはっきりした目的をもって、守られています。
 
ところが、現実的には凡ての定期集会に出席できる人は限られております。地理的、時間的理由、また各自の異なる理由のために。
 では、どうしたらよいのでしょうか。勿論、私たちは主なる神の民として、生活全体の設計を立てて、時間を最も有効に用いながら、できるだけ定期集会に参加する努力を払う必要があります。
しかし同時に、各自が委ねられている責任のために、定期集会に出席出来ない面があります。そのような時、集会に出席できないのだと消極的に私たちは考えてしまいます。
しかし、そうする必要はありません。それぞれの場所で、時を定めて定期集会と同じ聖書の学びをなすことができます。そのために、「礼拝の生活」を大いに利用したいものです。ただひとりで聖書を学ぶばかりでなく、家族と共に、また知人と共に、小さな集会をもてるように、積極的な努力がなされる必要があります。
 週に一度、月に一度の多くの小さな集会が、青梅市のあちらこちらでもたれ、それらが、会堂での定期集会と有機的に結び合い、教会全体として礼拝の生活を生き続けたいものです。聖書の豊かさをさらに深く理解することによって。

★小さな集会。それは日本クリスチャン・カッレジの1年生の時、同級生の雨宮神学生が埼玉県寄居の開拓伝道を私に紹介してくださった際の鍵のことばでした。
マタイ18章19,20節は、あの時以来、私を導き励まし続けてくれます。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
 まず継続する意志のある二人で開始、継続です。
しかし三人の集いとなるようにと祈り。一人が移住したり召されても、残る二人で継続、さらに新しい三人目を迎え継承できるために。
 青梅、沖縄、今千葉で、意志の明確な二人で始める小さな集会は、常に喜びの場、感謝の砦です。