Ⅱコリント 三つの個所の味読・身読 その3
Ⅱコリント 三つの個所の味読・身読 その3
★沖縄時代、オリブ山病院の若き婦長・天願悦子姉が、癌の再発で召されました。祈っていた末子の小学校入学後ではありましたが。
天願悦子姉の召天が一つの契機で、首里福音教会の主日礼拝のテキストとしてⅡコリントを選び、連続講解説教を続けました。
今、クリスチャントゥデイで、オリブ山病院関係の記事が、続けて掲載されています。感謝です。感謝の応答として、Ⅱコリント 三つの個所の味読・身読を。
『わたしの恵みは、あなたに十分』
Ⅱコリント12章1−10節
[1]序
Ⅱコリントの味わいの3回目として12章1−10節に注意を注ぎます。
まず11章との結びつき、直接的には11章30節との関係に注意したいのです。
1−4節に見る、「第三の天」、「パラダイス」などは、相手(コリント教会の人々)の関心を考えての発言であり、パウロが本当に語りたいことは、12章9、10節に要約されていると考えられます。特に、
「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(11章30節)とあるように、「誇り」、「弱さ」などが12章1−10節における中心的な課題であると見たいのです。
[2]誇りと弱さ
この段落の前後で、弱さと誇りについてパウロが繰り返し言及している事実は明らかで、注目する価値があります。
「私は自分の弱さを誇ります」(11章30節)
「自分の弱さ以外には誇りません」(12章5節)
「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(12章9節)
(1)「誇り」。
①誇ってはならないものを誇らないように。
②誇っても、誇らなくてもよいものについては、神経過敏にならないように。
③誇らねばならないものを恥じないように。
主イエスに対して、マルコ8章38節。
福音に対して、ローマ1章16節。
(2)「弱さ」
聖書に見る「弱さ」について、幾つかの点を確認できます。
①身体的なことなど、一般的な意味での弱さ、参照民数記13章18節。
しかし、そればかりでなく、宗教的、精神的、倫理的欠如・足りなさ、参照
詩篇6篇2節、「主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。」
ロマ5章6節。
②しかし注目すべき点は、「弱さ」は必ずしも否定的に見られていない事実です。主なる神は、弱い者を助け、また弱い立場にある者の保護を命じておられます。参照エゼキエル34章4、16、23節。
この流れの上に、
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
「福なる者は霊に於いて貧しき者[なり]、それは天国は彼らのものなればなり。」(新契約聖書約)
「さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから」(前田役)(マタイ5章3節)
③主イエスと弱さ。マタイ8章17節に見るイザヤ53章の引用。
④上記のそれぞれ、特に③との深い結びつきで、キリスト者・教会と弱さの関係は理解されるべきです。その際、Ⅱコリント11、12章、大切な鍵。
[3]「わたしの恵みは、あなたに十分である」(9節)
「我が恵みは汝に足れり」(新契約聖書訳)
「わが恩恵はあなたに足りている」(前田訳)
(1)Ⅱコリントを通して、パウロは神の恵みについて、くりかえし強調。
2章14節、4章15節、6章1節、8章1、4,6、7、9、16、19節、9章8、14、15、
12章9節、13章13節など、手紙全体を通して。
(2)「恵み」は、パウロ特愛のことばの一つ。新約聖書でパウロ以外の著者全部合わせて51回用いているのに対して、パウロの手紙では101回用いているといわれます。
(3)しかしパウロの関心は、主なる神の恵みが豊かに注がれている事実の指摘だけでなく、6章1節にみたように、その恵みに対する応答がどんなに大切かをくりかえし強調しています。
「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(6章1節)
この神の恵みをむだにしないようにとのメッセージは、何より主イエスご自身が教えておられることで、特に主イエスのたとえの中で明らかにされています。たとえばマルコ13章33−37節。
「気をつけなさい。目をさまし、注意しなさい。」(13章33節)。
「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」(13章27節)
[4]集中と展開
(1)集中
①「第三の天にまで引き上げられ」(12章3節)るや、「パラダイスに引き上げられ、・・・ことばを聞いた」などの特別な経験を、コリントの人々も同じく経験すべきこととして、パウロは伝えているわけではない。
②パウロの中心的なメッセージは、「わたしの恵みは、あなたに十分」(9節)と神の恵みの豊かさの現実を知ること。また「神の恵みをむだに受けないようにしなさい」と、それへの応答。
(2)展開
「キリストの力が私をおおうために」(9節)、「私が弱いときこそ、私は強いからです」。パウロも確かに、力、強さについても課題としており、それらを頭から否定しているわけではない。
しかし私たちが大切にすべき課題は、どのような「力」、どのような「強さ」が本当の力であり、強さであり、パウロはそれを指し示しています。
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、
窮することはありません。
途方にくれていますが、
行きづまることはありません。
迫害されていますが、
見捨てられることはありません。
倒されますが、
滅びません。」
(Ⅱコリント4章8,9節)
この世の現実のただ中で、生身のからだをもって、キリストにある恵み支えられ、しなやかに、したたかに生かされきるのです。
聖歌 733番 笹尾鉄三郎作詞
1番 ゲッセマネのよるの きみをしのばば
うきもなやみも などで避くべき
おのれをすてて きみにしたがわん
2番 ピラトのにわの きみをしのばば
はじもなわめも かこつべきかは
言い訳せずに きみにしたがわん
3番 カルバリやまの きみをしのばば
いたみくるしみ ものの数かは
十字架をおいて きみにしたがわん
4番 はかよりいでし きみをしのばば
あたもあくまも おそるべきかは
かちどきあげて きみにしたがわん