パウロの手紙・ピレモンへの手紙 1章短さ・短編の魅力  その1 まず全体を通して観る・通観

パウロの手紙・ピレモンへの手紙 1章短さ・短編の魅力 
その1 まず全体を通して観る・通観

発信人と受信人と二つの焦点を持つ手紙は、神と人の二つの焦点を持つ神と人との契約関係・呼応関係を説き明かすため、適した表現方法。

[2]ピレモンへの手紙の場合
◆発信人、「キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから」
(1)「キリスト・イエスの囚人であるパウロ
 「・・・の」、パウロが誰に所属するかを示す。手紙が単なる個人的なものではなく、手紙を受け取った者がそれに従う義務を生ずることを示唆。
 「囚人」、ローマの権力の下でローマの囚人であるのに、より根源的な関係をパウロは深く洞察しています。

(2)「および兄弟テモテから」
 「兄弟」、主なる神を「アバ、父よ」(ローマ8章15節、ガラテヤ4章5、6節)と呼ぶことを許された者の間に与えられている恵みの関係、参照2節の「姉妹」。
 テモテは、パウロにとってだけでなく、またピレモンにとっても兄弟。さらに、この手紙の陰の主人公である逃亡奴隷オネシモも、「奴隷以上の者、すなわち愛する兄弟」。主イエスにあって、人間の築いたあらゆる差別の壁を越えて広がる関係。
 「キリストによって奴隷が自由人となり、また自由人がキリストのもとに隷属する者となって、両者が主にある兄弟どうしとして一つに結ばれあること、それが奴隷問題の原始キリスト教的な解決であった」(NTD新約聖書注解 8、パウロ小書簡、480頁)。

◆受信人、「私たちの愛する同労者ピレモンへ、また姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキボ、ならびにその家にある教会」
(1)「私たちの愛する同労者ピレモンへ」
 愛する者、神を父と呼ぶ愛を中心とした交わり、存在の喜び。
 同労者、神を主と呼ぶ使命を中心として交わり、誰でも自分一人では生きることが出来ない。誰でも、何も使命がない人はいない。

(2)「また姉妹アピアへ」
 ピレモンの妻、オネシモを受け入れるにあたり、妻・主婦としてアピアの役割、実権。
 アピア自身、ピレモンの妻としてだけでなく、彼女自身が自立して公の交わりの中で位置を与えられています。
(3)「私たちの戦友アルキボ」
 ピレモン、アルキボ夫妻の息子。
 「戦友」、参照ピリピ2章25節。

(4)「ならびにあなたの家にある教会
 福音が家族へ広がり行く様を新約聖書は明示。カイザリヤのコルネリオ(使徒11章14節)、ピリピのルデヤ(使徒16章15節)、看守(使徒16章31,34節)コリントのステパナ(Ⅰコリント1章16節)、エペソのアクラとプリスカ( コリント16章19節)など。
 「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」(マタイ18章19節).

[3]ピレモン10節
「獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。」
(1)10節。パウロはピレモンの立場を考慮し、細心の注意を払いつつ書き進めて来ました。しかしこの節でついにオネシモの名前を直接あげます。言わばオネシモ登場です。

(2)「獄中で生んだわが子オネシモ」
 9節まで、入念な準備をしておいて、いよいよ10節でパウロは用件を切りだすのです。この段になっても、パウロはなおも十分な注意を払っています。この事実は、以下に見る10節の元々の語順からも明白. 
私はお願いします あなたに ために 私の子
       その者 私は生んだ で 獄 オネシモ
 パウロは、9節に続き、私はあなたにお願いしますと繰り返し、ピレモンに対し大切な依頼があることを強調します。それは、「わが子」のことであるとパウロは切り出します。このパウロと一番密接な関係のある人物について、「(私が)獄中で生んだ」と説明し、最後に、それが「オネシモ」であるとパウロは明らかにします。この繊細な心配りの中に、パウロのオネシモに対する深い愛とピレモンに対する思いやりがどれほど深いのものであるか、私は正確に推し量ることができないほどです。
パウロの手紙すべては、まさにこの奥深い愛・パウロ自身が復活の主イエスから受けた愛から滲み出ていることば、そうです、聖書全体が神の繊細な愛の迸りです。

 パウロは、この段になっても、いきなりオネシモの名前を告げることをしていないのです。その代わりに、この人物とパウロがいかに親しい関係にあるかを示しつつ、獄中でパウロがキリスト信仰へ導き、彼は今や神の恵みにより新しく生まれかわった人間であると断言し、そこで初めて、パウロはオネシモの名を明らかにしているのです。

①「わが子」
 ラビ系ユダヤ教において律法を教える者と学ぶ者の関係は、単に教員と学生・生徒・児童の関係ではなく、師匠と弟子と言い表した方がふさわしく、さらに父子関係・イメージで表現されます(参照,私たちの間でも,「教え子」と言い方)。パウロは,時として自分自身と一地域教会との関係を、父と子の関係で表現します(Ⅰコリント4章14,15節,ガラテヤ4章19節)。またテモテを,、主にあって私の愛する、忠実な子」(Ⅰコリント4章17節)と呼びます。

②「獄中で生んだ」
 オネシモは、キリスト者ピレモンの奴隷でした。しかし彼自身は,キリストを個人的に信じてはおらず、ピレモンの家にある教会の一員ではなかったのです。なぜであるかは直接述べられていませんが(勿論,ピレモンはそのことを熟知)、ピレモンのもとから逃亡した後、どのような経過か私たちには不明ですが、オネシモはパウロのもとに来て滞在し、その間にキリスト信仰へ導かれたのです。 
 ですからパウロとオネシモの間は、単に比喩・たとえとして、父と子の関係で言い表されているだけではなく、それ以上です。実に現実の間柄です。パウロは、父親のように、奴隷であるオネシモのために執り成しているだけでなく、子を生むと同じ、いやそれ以上の現実の出来事(存在と思考において)としてキリスト信仰に導き,オネシモは新しいいのちにあずかる者となったのです(Ⅰコリント5章17節)。

◆実にこのオネシモは、彼と同じくパウロによりキリスト信仰へ導かれたピレモン(19節)の兄弟(16節)であるとさえパウロは指摘します。

③「オネシモ」
 オネシモ、「有用なる者・役に立つ者」(10節)を意味する。この名前は,当時奴隷の名前として珍しいものではなかったと言われます。しかしオネシモという名前は,ピレモンにとって一般的な奴隷の名前と言うだけではすまさず、間違いなく、「あのオネシモ」とその良からぬ思い出を想起させたにちがいありません.パウロがキリストにあってこれほど深い愛をもって一生懸命に執り成している人物、それがこともあろうに、あのオネシモとは。ピレモンも、彼の家族も、彼の家にある教会の兄姉も、どれほどの驚愕(きょうがく)をもって、この名を聞いたことでしょうか.

(3)「あなたにお願いしたいのです」
 ピレモン、彼の家族、彼の家にある教会の兄姉の驚愕のほどを思えば,パウロの「あなたにお願いしたいのです」との願いが、これまたどれほと真剣で、ただならぬ願いであったかは明白です。参照マタイ8章5節、マルコ5章23節。

[4]集中と展開
(1)集中
パウロは最後の最後まで気を抜かない。
私たちも土俵際が大切であることを忘れないように。

②主イエスご自身に名を呼ばれる幸い。
ヨハネ11章43節をその前後関係を大切にしっかりと受け止めたいのです。
 「そして,イエスはそう言われると,大声で叫ばれた.『ラザロ(あなたも私)よ出て来なさい.』」

(2)展開
いつでも、聖書のどの手紙を、いや聖書のどの箇所を読む場合も、

Ⅰこの箇所に何が書かれているのか、主題・What

Ⅱこの箇所でいかに書かれているのか、展開・How

Ⅲこの箇所で、このことをこのように、なぜ書いているのか、意図・Why

ⅠとⅡの段階を忠実掘り進めて、Ⅲの段階、つまり書き手の意図。心に触れる。
そのとき溢れるばかりの書き手の思いが注ぎ込まれ、私たちの心はうちに燃える経験をします(ルカ24章32節))。

これは、私たちが手紙を書く場合も全く同じ。
私たちは、まず書く意図・なぜ書くのかをはっきり自覚。
何をいかに書くか苦労しながら実行して行く。

「わたしは進歩しつつ書き
  書きつつ進歩する人の一人であることを告白する」。