Ⅱコリント 三つの個所の味読・身読 その2

Ⅱコリント 三つの個所の味読・身読 その2

★沖縄時代、オリブ山病院の若き婦長・天願悦子姉が、癌の再発で召されました。祈っていた末子の小学校入学後ではありましたが。
 天願悦子姉の召天が一つの契機で、首里福音教会の主日礼拝のテキストとしてⅡコリントを選び、連続講解説教を続けました。
 今、クリスチャントゥデイで、オリブ山病院関係の記事が、続けて掲載されています。感謝です。感謝の応答として、Ⅱコリント 三つの個所の味読・身読を。

『私たちとともに死に、ともに生きるために』
Ⅱコリント7章1ー7節

[1]序    今朝9月第一主日の礼拝では、Ⅱコリント7章1ー7節を味わいます。
9月の主日礼拝では、9月8日第二主日日本福音キリスト教会連合九州・沖縄地区の講壇交換、9月15日第三主日が敬老礼拝(出エジプト記20章1ー17節、『あなたの父と母を敬え』)と特別な礼拝が続きます。
 また9月1日午後5時からは伊芸満君の記念会、9月29日夜には、第2回又吉幸子記念卓球大会を予定。
 こうした中で、第一主日に続き、第4主日には、Ⅱコリント7章7ー13節前半(『神のみこころに添ったその悲しみ』)、第五主日には、7章13節後半ー16節(『全幅の信頼』)と三回の主日礼拝でⅡコリント7章全体を味わい、パウロたちとコリント教会との関係、テトスの役割などに焦点を合わせ、現代の教会における牧師と教会員、教会員相互の関係、さらにそれらが宣教活動に占める位置について考えます。 

 今朝の箇所で、パウロは、「私たちとともに死に、ともに生きるために」と、パウロたち宣教・牧会者たちとコリント教会の人々が生死をともにする関係にあるように描いています。
 10月26日に予定の首里福音学生センター第6回講演会で、基督教独立学園高等学校前校長、武祐一郎先生がお話くださいます。山形の独立学園高等学校、三重の愛農高校、島根の愛真高校へと続く流れの中で、高校教育に従事する先生方が確認してきたことの一つは、「教育とは、いのちのやりとりだ」ということです。
 これは教育だけでなく、牧会伝道においても同じであることを8月の歩みにおいて改めて教えられました。8月18日(日)に開かれたキリストの平和セミナーで、台湾長老教会の高俊明先生が『日本と世界の平和』との題で感銘深いをお話をしてくださり、翌朝の朝祷会特別集会では、『愛と祈り』という題で心に迫る宣教をしてくださいました。
 高先生の集会で久し振りに会うことのできた、教団首里教会の知花先生と22日(木)に幸いな交わりのときを与えられました。その際、知花牧師が高先生から教えられ、また自ら牧会者としての自覚し目指す点として、逃げ場・行き場のない宣教活動(ヨハネ福音書10章11ー14節参照)といのち(日々の生活、生涯)をかける牧会と点をあげられました。
 これがまさにⅡコリント7章全体において課題としていることで、その教育の場での現れの大切な一つが、前述の三つの高校で教育に従事する人々の実践です。その現代の宣教・牧会における貴重な実例を台湾長老教会の高先生をはじめ主にある方々の歩みに見ます。
 私たちが沖縄でどのように生かされ、実を結んで行くか、Ⅱコリント7章を通し基本的な方向と実践の力を与えられるよう祈りつつ9月の一回一回の主日礼拝へのに備えを。

[2]「心を開く」、1ー4節。
(1)1節と2節以下。1節は、「私たちはこのような約束が与えられているのですから」判断できるように、6章で取り上げてきた事柄の上に立ち、その要約、結論として、「いっさいの霊肉の汚れから自分たちをきよめ、神を恐れかしこんできよきを全うしようではありませんか」と「神の恵みをむだに受けない」(6章1節)、きよめの生活・聖化の道を勧めています。その一つの側面を、パウロは2節以下であげています。

(2)心を開く。きよめの生活・聖化の道を歩むように勧めたコリント教会の人々に対して、パウロはその一つの実践として、「私たちに対して心を開いてください」と、コリント教会の人々とパウロたちの関係・人間関係に焦点を当て迫ります。さらにパウロはコリント教会の人々に求めるだけでなく、自分たち自身についても「私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません」と牧会者・働き人としての当然の戦い(当然の戦いが案外無視されやすいのが私たちの実際では)を戦っていると明らかにしています。

(3)3節。「前にも言ったように」は、6章11ー13節、「コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのでなく、自分たちの心で自分を窮屈にしているのです。私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。」を指しているのは明らかです。パウロはまず自分たちがコリント教会の人々に対して心を広く開いている事実を明らかにし、彼らもパウロたちに対して自分の心を窮屈にせず、心を開くよう重ねて求めているのです。
 ではパウロがコリント教会の人々に対して心を開くとはどうすることなのでしょうか。4節で、パウロはコリント教会の人々に対する心の態度について、「私のあなたがたに対する信頼関係は大きい」と信頼関係ををあげています。また「私はあなたがたを大いに誇りとしています」と述べています(16節、「私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます」については、9月29日の主日礼拝で)。
 聖書は、「誇り」について否定的・消極的に述べているだけでなく、肯定的・積極的にも述べています。持たないほうが良い、さらに持ってはいけない誇りが何かを教えるだけではなく、持ってもよい、さらに持たねばならない誇りについても教えています。

[3]「慰めに満たされ」、5ー7節。 
(1)4節後半。4節前半までの箇所で、パウロはコリント教会の人々に勧め、また自分自身の基本的な態度について明らかにして来ました。4節後半では、そのような勧めをなし、態度を保つ土台・基盤として、「私は慰めに満たされ」ているからとはっきり語っています。この5ー11節の箇所で「慰め」、「慰める」が鍵のことばであることは、繰り返し用いられている事実からわかります。さらにⅡコリント全体において(1章3ー7節を天願悦子姉の病床で味読した思い出を忘れることができません)、パウロの手紙全体、新約聖書全体での用例について。
 
(2)パウロ自身の経験。「私は慰めに満たされ」、その結果として、どのような生き方、生活をしているか。「どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています」(4節)。

(3)5節以下。パウロは、慰めに満たされている実例の一つとして、「マケドニヤに着いたとき」のことをあげています。そのときの状態、「私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れ」。何故そのような状態になったかについては、2章12、13節参照。6節、「しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました」。誰が誰を慰めたのか、主なる神が気落ちした者たちを。どのようにして、パウロとテトス、テトスとコリント教会の人々の人間関係を用いて。

[4]結び。
(1)心を開く。
①地域教会内の交わり。牧師と会衆。信頼とつまづき。信頼できない牧師のメッセージを聞くつらさ。信頼されない会衆の前で宣教するつらさ。7章2節。牧師のための祈り(11章28、29節、Ⅰペテロ5章2ー4節、ヘブル13章7、17節)。
 会衆相互の交わり、ヨハネ福音書ヨハネの手紙に見る兄弟愛の勧めこそ、宣教の原点。その実例・模範として牧師同士の交わり(沖縄地区の牧師の交わり、伊江島キャンプの恵み。教会形成の志しを同じくする、日本基督教会沖縄伝道所駒井牧師、日本改革派那覇教会村山牧師との三人で月一度の学びと祈りのとき、日本基督教団首里教会知花牧師との心の交わりのさらなる深まりと広まり)のための祈り。 

②誤った分離の理解からの解放。周囲の家族をはじめキリスト者でない人々に対して、心を開く。周囲の人々を信頼する、信頼の人々から信頼される。これが宣教・伝道の原点。そのためには、5章15節、キリストのために生きる、隣人・他者のために生きる。隣人とは、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10章25ー37節)。
 牧師をはじめ主にある兄弟姉妹に心を開いていない人が周囲のキリスト者でない人々に心を開くことは困難というより、不可能では。
 心を開くことと、妥協は別のこと。分離すべきことを分離し、心を開き聖化の道を進む。
心を開くとは、愛(Ⅰコリント13章、特に7節)。「そして愛というものが、ある場合には目をはっきりと開いて、すべてを信じ、ある場合には目を閉じて、真の未来を見るものであるということを知るのである」(ボンヘッハアー)。

(2)神の慰めを受けよ。
 「悲しむ者は幸いです。その人は慰められます」(マタイ5章4節)。
 来年8月からマタイの福音書の味わいに備えて、ヨハネ福音書(1986年4月6日ー88年5月8日)、ルカの福音書(92年11月5日ー94年3月27日)に続いて、福音書の味わい。来年3月までⅡコリント。4月から7月ピリピ人への手紙を主日礼拝で味わいつつ備え。