主にあるバトンを受け継ぎ、手渡す喜びー池永倫明先生との長年の主にある交わり・対話

主にあるバトンを受け継ぎ、手渡す喜びー池永倫明先生との長年の主にある交わり・対話
 
★宮村→池永倫明先生
沖縄時代、依頼を受けて池永倫明の著書の書評を書く機会を与えられた恵み、忘れることが出来ません。

池永倫明『喪失と発見 : 人生の神秘』』 一麦出版2000.9

宮村 武夫 書評  
「序  
本書を手にして、著者との出会いを改めて思い起こすのです。
1986年4月、首里福音教会に着任したばかりの筆者を、その頃でも珍しくなっていたコンセット(かまぼこ兵舎)の会堂に、いの一番にかけつけてくださった日のことを。
 本書は、著者が現に牧会なさっている蒲田御園教会で、1990年代に、語られた主日礼拝説教の中から、「牧師をはじめ、教会員が家庭に求道者の方々を迎えて交わり、主日礼拝の恵みにあずかってもらうためのきっかけとして、共に学び合うテキストとして、『ハイデベルグ信仰問答』などと共に用いられること」(245頁)を願い68編を編んだもの、それが出版されたものです。
 
 68編の主日礼拝説教のテキストは、旧約から6編、新約からはヨハネによる福音書とローマ人への手紙からのそれぞれ11編を中心としています。その全体を貫く特徴をあえて一言で表現するなら、ことばの最善の意味で、正統的と言わざるを得ない。51番目の説教題、「罪の赦しを信ず」に、また「イエス・キリストは、私どもすべての者の代理として、十字架の道を通って、私どもの罪を負って歩まれたのです。・・・まことの神から離れ、離反した人間の受くべき呪いの死を私どもの代わりに御自身が負い、神から見捨てられる死を味わう、その死の恐怖を私どものために主イエスは受けて下さったのです」(57頁)との十字架理解に典型的な実例を見るように、使徒信條の解説書とでも言いたいほどです。それは奇をてらうことなど微塵もなく、「天の父からくる喜び、福音の喜び」(40頁)が滲み出る、生かされるゆえに、生きる者の肉声です。
 
主日礼拝、礼拝の生活
 本書の源泉、それは、蒲田御園教会の主日礼拝です。なぜ主日礼拝に集まるのかを明確に自覚し、「時間を贖い、時間の主となって下さった、復活と昇天の主は、私どもの時間の中に入って下さり、週日の中に共にいて下さり、聖霊によって働いてくださる。これが聖書の約束です。それゆれに、私どもは、主イエスの復活された主日に礼拝に集められ、一週の生活に押し出されてゆくのです。聖霊において、神に喜ばれる聖なる供えものとなって、神の恵みの支配のもとに献げられてゆくもの、これが礼拝です」(174頁)と言い切る牧師と群れを通して、本書は生まれたのです。礼拝と生活の二本立て、ましてや二元論ではない。礼拝しつつの生活、日々の生活が礼拝、礼拝と生活が一体となる礼拝の生活を見ます。主日から主日への日々を、主日礼拝の喜びをもって歩む礼拝の生活そのものの中から、「どうか、私どもの教会が、礼拝ごとに、祈りのごとに、主の前に新たにされて、福音を受け取り、宣教の委託に応えることができますように」(43頁)との祈りがささげられます。
 
聖書と教会、聖霊と教会
 礼拝の喜びに生かされる群れに、著者は主日礼拝において聖書を説き明かし続けます。この場合、現に取り上げているテキストだけを著者は念頭に置くのではない。「聖書の中で」、「聖書によれば」(101頁)と聖書全体を常に視野に入れ、「聖書は私どもの心の目を開こうとしています。聖書は、そのことを常に主イエス・キリストとの関わりで告げています」(103頁)との確信に立ち、目前の方々に語り続けます。
聖書全体の流れを重んじ、取り上げたテキストを独善的また浅薄に読むのではなく、正しく、深く、豊かに解釈することを目指す著者は、聖霊ご自身の導きに終始一貫して信頼します。「私どもは真剣に聖書の言葉を聞き、聖餐の恵みにあずかり、聖霊の主権のもとに自らを明け渡さねばならない」(115頁)との決意と共に。 この態度は、「日本のプロテスタント教会の誕生の時にも、劇的な聖霊の経験を当時の青年たちはしたのです。植村正久牧師は、一八七二年の横浜における青年たちによる初週祈祷会において、キリストの神を信じる信仰の素晴らしさに圧倒された経験をしました。ここから、日本のプロテスタント教会は成長をはじめたのです。このように、生けるキリストは、聖霊によって、教会を導き、個人を導き、歴史の中に働かれるのです。」(181頁)とあるように、日本のプロテスタント教会の歩みの最初からあったものです。著者は、「我は聖霊を信ず」と信じ告白する者として、火山の内部のマグマのように心熱くし、聖霊ご自身の全生活の全領域に及ぶ導きを深い自覚をもって証しされている様、実に印象的です。そして 聖霊、聖書、教会の下に、今、ここでラディカルに立ち続ける、この著者が体現している道こそ、各地域にある私たちキリスト者・教会が、それぞれの今、各自のここで進むべき道と静かな迫りを覚えます。
 
結び
蒲田御園教会の現実に堅く根差す本書が、著者が神学校卒業後、最初の5年牧会なさった北海道に主にある志しをもち立つ出版社から出版されている事実。その後18年、現在では想像できない日々の中で著者ご夫妻が牧会された沖縄、その沖縄で著者からパトンを受け取った思いを僭越ながら抱く筆者が、今この文を書かせて頂いている。地域に根差し、地域を越える、「聖なる公同の教会」のリアリティーに触れる思いがします。
 著者紹介に、「沖縄聖書神学校名誉教師」と明記。これは、沖縄で制約の中で歩みを重ねる者たちに対する、著者の暖かい励ましのサインであり、熱き心の結晶です。
日本福音キリスト教会連合首里福音教会牧師)。

★池永倫明先生→宮村
池永先生よりの便り
「主にあって。
「ルカの福音書」(2、3)、「哀歌講解説教」を贈呈下さり、早速味読をはじめています。今は、書籍を新たに購入することもなく、図書館も近くになく、宮村武夫先生の書かれた読みやすい、先生の永きに亘る伝道者魂の秘められた含蓄のある言葉を新鮮に味わっています。本当にありがとうございました。
クリスチャントゥデイの印刷物にも興味深く目を通し、宮村先生の写真もあり、沖縄時代より、主にある交わりをいつも感謝し、沖縄にしっかりした教会を育て、また多くの若い伝道者を育て、福音に立った実践的な神学書を日本の教会形成のために出版され、今も継続されているのをおぼえ、私自身の力の弱さを思い、刺激を与えられています。お礼まで」。
 
 池永ご夫妻の後任の牧師が着任される度に、いの一番にかけつけるよう私は心掛けました。首里福音教会を去らねばならない修羅場を通過していた頃、川越弘・和子ご夫妻が、沖縄伝道所の新任牧師として着任されたのです。
川越ご夫妻は、1969年私が東京キリスト短期大学で授業を担当した学生で、それ以来深い交わりを重ねていました。
2011年5月、私たちが沖縄から関東へ戻る際、主にある親しい方々が、石川福音教会で、送別会でなく壮行会を開き、川越先生が励ましに満ちた宣教を担当くださいました。

★<池永倫明先生より2通目>
「主にあって。貴重な本、表紙も印象的で、ポケットに入れて、どこでも味読できる本を頂き、お礼の便りをしたためた後、本日郵便で改めて先生のお手紙を受け、感謝します。
著作集の刊行の上にも、主の祝福を祈っています。「新」兄の御結婚、主の支えと導きを祈っています。
宮村先生のリハビリの生活、奇蹟的な回復のことを主に感謝しています。
当方は、三木市で持病の心臓で、カテーテル手術をして、毎日ニトロをのんでいて、庭で野菜作りをしたり、息子が牧師をしている神戸の伝道所にて礼拝を守るとき、約四十分位歩くのがせいいっぱいで、すぐ心ぞうににぶい痛みがきます。医者はバイパス手術をすすめていますが、手術がいやなため、先のばししています。先生よりのエールありがとうございました。」
  
★2012年から毎年、2月は、沖縄訪問・宣教を重ねています。3回とも最初の水曜祈祷会は、沖縄伝道所の祈祷会に参加、川越ご夫妻と祈りを合わせて来ました。
池永ご夫妻から引き継いだバトンを、川越ご夫妻へ手渡せた手ごたえ、喜んでいます。

★巻頭言
日本キリスト教会引退教師 池永倫明

 個人的な想起
 はじめに、畏友宮村武夫牧師を筆者が尊敬するのは、ひとえに彼が優れた福音説教者、牧会者であるという一点であって、そのほかのことではないと、ことわっておきたい。
 彼とはじめに会ったのは、御家族と友に沖縄の福音派の教会に赴任された数日後で、首里福音教会という名の開拓伝道初期の無牧の教会に、思いを越えた経過で導かれたことを後で知った。宮村武夫牧師は、「沖縄赴任後一番最初に訪ねて来られた牧師は、池永牧師だった」と言われ、この訪問を喜んでおられた。その赴任直後の宮村牧師一家の住居は、沖縄の駐留米軍からの払い下げのカマボコ型兵舎の一棟であった。当時おそらく宮村一家の御家族は沖縄での開拓伝道の厳しさを覚悟し、また実感されたのではなかったかと思う。
 爾後、宮村牧師との交わりは深められ、カルヴァンキリスト教綱要』(邦訳)の超教派の共同研究会にも共々参加した。この会は各教師が担当を決めて、章毎に解説し、論議するもので、すこぶる楽しかったのを筆者は回想する『綱要』の全体を一応読み終わったと記憶している。
 宮村武夫牧師は、教会・キリスト者とは「主イエス・キリストを首(かしら)として生きる群れである」と、基本的に考えておられ、そこに立って生きているなら、どんな教派のキリスト者とも、主を首(かしら)とする者同志の交わりを実践し、大変エキュメニカルな姿勢を持ち、胸襟を開いて語り合い、信仰の交わりをする牧師であった。また沖縄での諸平和集会の参加者の中に、御家族と共に、いつも長身の彼の顔があった。彼から教会の諸集会のプログラム・週報・月報などもよく手渡され、たとえば青少年中心の離島での夏期研修会などが綿密な企画のもとでなされ、その実践力に筆者も教えられ、影響を受けた。
 また宮村武夫牧師は、沖縄の超教派の「沖縄聖書神学校」の新約聖書学部門の講師(この当時この神学校校長は、筆者の記憶では、福音派に属しておられた運天康正牧師であり、運天牧師は、カルヴァンの『キリスト教綱要』をこの神学校の教義学の教材とすると、入学式で宣言しておられた。沖縄のいくつかの教派の牧師たちも講師に依頼され、いわゆる手弁当で、将来沖縄で福音宣教に仕える人材、また教会学校教師などで教会で仕える人材を育てるために、首里の「祈祷院」を借りて神学教育をしたのであった。当時他県の整った神学校にゆけない現地沖縄の若者たちを育てるためにこの神学校はよい働きを果たしたのではないかと筆者は考えている。
 宮村武夫牧師と、時折会って雑談を交わしている中で、彼が社会福祉の問題に深くコミットしておられる印象を受けたし、また日本クリスチャン・カレッジで提出した卒業論文がドストェフスキー論であった(「主よ、汝の十字架をわれはずまじ ドストエフスキーの神学的―考察」)と言われたのを記憶しているし、彼の説教集の中にドストェフスキーの作品にふれたものもあり、何かのエッセイ的な文章の中にドストェフスキーの『悪霊』にふれたものもあったのを今思い起こす。
彼との交わりの中で、宗教改革史、教理史、世界の教会史、日本のキリシタン史、日本の教会史、沖縄史、沖縄の民間宗教、日本の諸宗教史などについても、よく学んでおられる印象を受けた。それも彼が福音説教者として、宣教の対象である日本人の文化的背景を把握したいという願いからの学びであると思われる。
 筆者は宮村武夫牧師の肉声による説教を聴きたく、かねてより思っていたが、その望みがかなったのは、筆者が当時牧会していた蒲田御園教会の特伝に講師として沖縄から迎えたときで、教会員たちは、その説教と講演から大きな信仰の益を受けることがゆるされ、今も感謝している。その後、宮村牧師は沖縄で病に倒れられたという一報を受けた。しかし、リハビリの努力で奇跡的に病から回復されたとの通知を受け、東京での「宮村牧師出版記念会」で笑顔の明るい宮村武夫牧師と再会することができた。福音宣教の闘いの同志である御夫人が傍らにおられ、益々福音宣教の志しをもやしておられる印象を受けた。

 本注解書にふれて
 本注解書、つまりテサロニケ人への手紙第一、同第二、ガラテヤ人への手紙、ペテロの手紙第一、同第二の注解書を読み、感想をメモ的に記したく思ったのですが、本書の厳粛な内容、著者の渾身の著述内容を筆者が安易に要約的に記すことによって、読者がこの注解書と向き合うのを妨げるような思いがするので、感想は最小限に止めたい。
 この注解書は、あたかも講壇から説教を聴くような、現代日本の状況の中に、冷静に、鋭く、他の聖書注解者たちの注解にも聞きつつ述べられた、宮村武夫独自の注解書なのである。文献表を眺めると有力な聖書学者たちと並んで、カルヴァンの聖書注解書も挙げられ、確かに宮村牧師はハーバード大学神学部での研鑽の時期に現代批評学の姿勢をおそらく身につけたであろうが、注解書全体に渗透しているのは、真理を証しする聖書の御言に即して、教会形成と宣教への委託への責任の一端を担う牧会者として、著者の並々ならぬ気迫のこもった注解書なのである。
 本注解書が、牧師たちの説教準備のときのよき指針の一つとなり、日本のキリスト者たちがこの注解書と向き合って、使徒パウロの福音宣教の言葉と各自が格闘されるよう願うものである。

二〇一八年一月 」