おりこうクリスチャンの危機

おりこうクリスチャンの危機という題で、私の人生におこった出来事をお話しさせていただきたいと思います。アウトラインがございますので、どうぞ、それをご覧になりながら、聞いてください。

★沖縄訪問中の恵みの一つは、再会です。その上、メールのやり取りも。
「宮村先生

今日の礼拝、祝福の内に過ごされたことと思います。
遅くなりました。お証しを送らせていただきます。

お懐かしい先生の、ご病気ではありましても、お元気そうなご様子を拝見し、ご活躍を伺って、うれしく、励まされたことでございます。また神様が私に与えて下さった証を読んでくださったばかりか、お励ましのコメントもいただきまして、本当に感謝でした。・・・
金城(広瀬) ふじ代)」


(1) 自己紹介

私は、岐阜県奥飛騨大自然の中で、三人娘の次女として、厳しい父と、おっちょこちょいの母によって、育てられました。
父と母は、昔、キリスト教聖公会の教会で出会い、結婚したカップルですが、私が子供のころは、両親が教会に通っている姿をみたことはありません。
そんな中、日本同盟基督教団の古川教会の牧師(その後、長年台湾宣教師として仕えられた寺田先生)が、我が家を訪れて教会学校に誘ってくださった関係で、わたしたち三姉妹は、古川教会に通うようになり、私は15歳のときに信仰告白をして、クリスチャンとなりました。
私は、大人になったら、マザーテレサのもとへ行って働くのだ、との情熱を、ひそかに胸にもっていたので、手に職をつけようと、高校卒業後は、名古屋のリハビリ専門学校へ進み、理学療法士として3年間、国立高山病院で働きました。三年間の仕事経験の中で、悩み、聖書の学びの必要を覚えて、東京キリスト教大学の一期生として大学に入学したのは、24歳の時でした。千葉での4年間の学びの後、インドではなく、沖縄の宜野湾聖書教会に遣わされ、そこで、4年間、宜野湾聖書教会の開拓に携わりました。沖縄での4年間の間、28歳の若造の開拓を、沖縄ブロックの皆様は、本当によく助けてくださいました。今のビクトリーチャーチの前身、国場教会の皆様も、礼拝応援に来てくださいました。沖縄にきて三年目に、沖縄出身の主人、金城幸政と出会い、一年の婚約期間を経て、結婚いたしました。結婚を機に沖縄を離れ、主人の属していたグレイスブラザレン国際宣教団に移り、宣教師として19年仕え、主人が退職後の今は、家族で、牧港中央バプテスト教会に通っております。

(2)やってきた突然の試練

さて、年老いた主人の両親のことが気がかりで、沖縄に10年前に引っ越してからは、沖縄の二世帯住宅の二階で家族だけの礼拝をはじめ、こどもたちのための子どもクラブを月に一回するようになりました。そんな、沖縄に帰ってきての5年目の、ある日のことです。
次女かなんが原因不明の頭痛に襲われ、徐々に熱が高くなっていくという状態になったのです。それがまさか、急性骨髄性白血病であるとは、その時には思いもよりませんでした。原因がわかるまでの二週間の不安、そして、白血病ではないかと予感したときの悲しみ、恐怖は、今でも忘れることはできません。主人は、吠えるように泣き、私は、心が、シューッ、ピシャッと音を立てて閉じてしまったような感じがしました。数日後、主治医から、はっきりと、娘の病気が、急性骨髄性白血病であるとの告知を受けた時には、主人も私も、大きな崖を、覚悟をきめて飛び降りるような気持ちで、夫婦二人で、固く手をにぎりあったのを覚えています。

こうして、母である私と、当時小学2年生のかなんは、家族から離れて、半年間、南風原こども病院に入院致しました。当時小学校5年生だった長女初穂にとりましても、6歳の幼稚園生だった長男幸平にとりましても、人生で初の大きな試練となりました。もちろん、当時小学2年生だった次女かなんにとりましてはなおさらのことです。主人と私にとりましては、クリスチャン人生最大の危機となりました。

入院生活の中で、私はまず考えました。もし、なぜこの試練が、と考えたら、答えのない迷路にはまってしまう。でも、私たちを愛し、私たちに最善しかくださらない神さまがこの試練をくださったのなら、かならず、神さまの目的があるはずだから、なぜ?ではなく、何のために?と、それを求めて聖書を読んでみよう。そして、祈りました。神さまどうか、この試練が何のためなのか、教えてください、と。

(3)閉ざされた心に届くもの

どんな人の言葉の慰めも、私の心に届かなかったこの時期、聖書の中のひとつの言葉が私を励ましました。

「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めて下さいます。
こうして、私達も、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(第2コリント1章4節)

あ、この試練が何のためか、ひとつ見つかった。そう思いました。自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるため。今はつらくても、この苦しみに意味があるなら、耐えられる。そう思いました。こうして、神さまは、次々と、聖書の中から、このためだよ、このためだよ、と、この試練の目的について、語りかけて下さいました。

そう考えるとき、人間とは、やはり、ことばで生きる生き物なんだな、とつくづく思います。人は、パンだけでいきるのではない。神の口から出るひとつひとつの言葉による、との聖書の言葉は、やはり真実なのだなと、この時、実感いたしました。


(4)何のために―神さまの創造の素晴らしさを再認識するために

娘が白血病を病むという恐ろしい経験を通して、改めてきづかされたことがあります。それは、神さまが私たちの体を、どれほど素晴らしくつくって下さっているか、ということです。

かなんが入院していた半年の間、まさに死と隣り合わせの激しい治療が行われました。
急性骨髄性白血病の治療は、基本的に、体の中に増えひろがった、役立たずの赤ちゃん白血球を、抗がん剤という毒薬で皆殺しにする、というやり方で行われます。抗がん剤を投与されている本人は、その間、体の中のウイルスやばい菌を退治する白血球がひとつもいなくなってしまうので、すぐ、ウイルスやばい菌に感染してしまいます。娘は、いったん感染が始まると、がたがたと体をふるわせ寒がりました。歯がかちかちと音をたててなり、時には、食べ物をもどしてしまうこともありました。熱があがりきるまでは、お布団を三枚きせても寒がりました。熱があがると、お医者さんは、まってましたとばかりに、最強の抗生物質と、カビの薬を、絶妙のタイミングと量にコントロールして、24時間点滴で投与し、ひたすら、新しい正常な白血球がうまれてくるのを待ちます。その間、目、鼻、口、胃、腸の粘膜すべてが、次々と炎症をおこしていくのです。しかし、その恐ろしい状況も、一度白血球が生まれてきた途端、一変します。ものすごく強い戦士が現れて、襲い掛かるばい菌軍団を、ばったばったとやっつけてくれるようになるからです。

私は、この時まで、この世界がこんなにも危険なウイルスやばい菌で、満ちているということを、よく意識していませんでした。もし、私たちの体に、白血球に代表されるすばらしい免疫システムがなかったら、この世界は、なんという恐ろしい場所なのでしょうか。しかし、神さまは、私たちの体を最強の免疫システムで武装して、このばい菌とウイルスに満ちた世界に、送り出してくださいました。神さまがくださったこの素晴らしい白血球に守られて、私たちは、今日も、カビやウイルスやばい菌のうようよした、この恐ろしい世界で、のほほんと生きていられるのだということを、もっと意識し、もっと感謝したいものだと思います。そのことに気付かせること、それが今回の娘の病気という試練の、一つの目的であったかもしれません。

(5)何のためにー歪んだ家族に癒しを与えるために

かなんの病気は、確かに、私達家族にとって、人生の危機と呼んでもいいほどの、おおきな試練でした。しかし、その時は、同時に、神さまが私達家族の病んでいる部分に、癒しと回復をもたらしてくださった時でもあったのです。

今思えば、私たち家族の親子関係は、少しばかり歪んでいたと思います。次女かなんが生まれた時、私は、長女に悲しい思いをできるだけさせないようにと、へんに気をつかって、初穂が、いいよ、というまで、あかちゃんのかなんにおっぱいをあげない、なんていうことをやっていたのです。あとで、六年生になった初穂から聞いたことですが、当時のわたしのやり方を見て、初穂は、こどもながらに、私のことを、「あーこの人はだめだ。この人に赤ちゃんはまかせられない、自分が赤ちゃんを守らないといけない。」と思ったというのです。3歳くらいの女の子がそんなことを感じていたとは、まったく知りませんでした。

子育ても、試行錯誤ですから、よかれと思ってしたことが、こんな風に裏目にでるなんていうことは、しょっちゅうです。そうこうしているうちに、少しおおきくなった妹のかなんは、おねえちゃんの初穂にべったり、という関係になりました。私自身は、おねえちゃんと妹の仲がよいので、それが問題だとも感じていませんでした。でも、時々、すきなお菓子をどれでもとっていい、という時に、妹かなんが、初穂よりも先にとることは、ぜったいになくて、それを促しても、どうしてもしようとしないので、かなんは、相当遠慮深い性格なのかな、なんて、思っておりました。今考えれば、姉はアダルトチルドレンであり、母代りとして妹の世話をし、そんな姉が妹にとっては、絶対者、つまり、けっして逆らえない存在、自分を守ってくれる、頼りにできる唯一の存在だったのでしょう。姉と妹がこのように、深く密着していて、その分、母である私と次女かなんとの関係はうすかったように思います。

こども三人の真ん中、という位置に置かれたこどもは、どうしても、ないがしろにされがちです。母とふたりきり、という時が、どうしても少なくなるのです。長女が学校に行って、三番目が眠ったので、さあ、今度は自分が絵本を読んでもらおうともってきた、4歳くらいのかなんに、絵本を読んであげようとして、お膝に入れて読み始めるのですが、3人の子育てで疲れ果てている私は、すぐに眠くなって、かなんが起きているにも関わらず、ごめん、かなん、ちょっとだけ、といって眠ってしまう。三人の子育てというのは、私には体力的に限界の日々で、せっかくのかなんとのふたりだけの時だったのに、母である私の方に、その余力がない、ということが何回もありました。

かなんの白血病で、私が、無菌室に、かなんと二人きりで入院し、半年間、家事から解放されて、かなんだけを見つめることができるようになった中で、私は、初めて、かなんってこういう性格だったんだと知るようになりました。なにしろ、一日中、私は、この子が無菌室であきないように、何かしらの遊びの材料を準備しなければならなかったからです。そして、かなんは、いつも遊びをリードしてくれた、大好きな姉なしに、自分で考えなければならず、そんななかで、自分自身の自由な発想を、次々と形にしていきました。

入院最後の日、明日からはもう、すべての束縛から解放されて、そとに出られるという日の前の夜、かなんは泣きました。もう母が、自分だけの母ではなくなってしまうことを悲しんで。あれだけすさまじい治療があって苦しんだ入院生活なのに、母と二人だけの入院生活がよかったといって泣く、その子供の中に、どれほどのさびしさがあったかを思う時、本当に心が痛みます。そして、神さまという方は、そんな子供の心の必要を、よーく知っていてくださる方なのです。そんなこどもの心の必要を満たすべく、神さまは、わざわざこんな形で親子二人きりの時を用意してくださったのではないかと思うのです。

(6)何のために―神を神とするために

さて、つらい半年間の激しい治療を乗り越えて、かなんは晴れて、退院することができました。2011年3月17日のことです。退院、一週間前には、東日本大震災がおこり、日本中が悲しみの中にありました。そんな中、私と娘は、半ば申し訳ないような気持ちで、しかし、心の中では万歳ハレルヤと叫びながら、退院してきたのを覚えています。

その後一年間は、母がいなくてさびしかった長女や長男の心のケアや、髪がなくなってクラスにもどる次女の学校生活への配慮や、主人の母のペースメーカーの手術や、主人の姉の入院や、なんやかんやで、忙しくしていて、私自身は、自分のことを考える時間も余裕もありませんでした。

ところが、かなんの退院から、一年くらいたつころから、だんだん、わたしの体がおかしくなってきて、ついには、家族以外の人に会うのもストレス、教会の仕事もしたくない、聖書も読みたくない、カーテンをしめてずーっと家にいたい、人生にやりたいことなんてひとつもない、という状態になりました。

そこで、そんな私のことを心配した主人が、一度カウンセリングをうけてみたら、と勧めてくれて、牧師夫人の藤野みやこ先生というカウンセラーに、一年半ほど、カウンセリングをしていただきました。そして、そのカウンセリングの中で、病院という戦場で感じた恐怖、悲しみ、自分自身の無力さや弱さや醜さ、人の共感や心づかいの嬉しさ、聖書のことばの力強さや真実、娘の入院を通して学んだ、今まで知らなかった神さまの姿など、さまざまなことを、分かち合い、聞いていただきました。

カウンセリングを始めて一年半が過ぎ、もうこれ以上、話すことはない、となったときに、それでもなお、私の中に、前に進めない思いのある自分、前のように神さまの目をまっすぐ見て、従っていく思いになれない自分がいて、いったいそれはなんだろう、なぜだろうという疑問に、いき当たりました。

カウンセリングの最後のお祈りの後で、突然、私は今までずいぶん神さまを侮った生き方をしてきたのではないか、ということに思い至りました。私は、いつの間にか、神さまの前におりこうさんでいれば、神さまは決してわたしに悪いことはしない、と思っていたのだと思います。それなのに娘の病という、こんなことが起こったので、いったいわたしが何をしたの?どうすればよかったの?何が間違っていたの?と、すっかり混乱して、神さまに従って生きることが、怖くなって、また、神さまに従って生きることが、なんだかすごく、ばかばかしいことのような気がする、というような状態になってしまっていたのです。

その日、カウンセリングから帰ってから、私は、ずいぶん長く読むことをやめていた聖書を、久しぶりに手に取り、読んでみました。ヨブ記というところを一気に読みました。

そして、私の今までの人生は、自分自身のおりこうさで、神さまさえもコントロールしようとして生きてきた人生だと、気づかされました。つまり、自分が神であったということです。神さまの喜ぶことをして、神さまを、自分の思い通りに操縦することで、自分の描いた道筋に持っていこうとしているような、そんな生き方を、いつの間にか身に着けてしまっていたのです。ヨブ記を読んで、自分の娘一人の命さえ、どうにもできない小さな者が、天地を造られ、大自然を支配しておられる神と、人生の主導権を争っていたんだなあ、と気づきました。そして、あなたこそ神です、あなたこそ神ですと、涙ながらに神の前にひざまずき、悔い改めの祈りをささげたのでした。

こうして、神さまとの関係が回復するとともに、カウンセリングを卒業することができました。2014年の7月のことです。


(7)何のために―福音を体験させるために

神さまが用意してくださった、試練のたくさんの目的を発見することで、混乱した私の心はずいぶん落ち着きを取り戻してきました。今通っている牧港中央バプテスト教会の礼拝の中で、メッセージを聞くごとに罪を示され、子育ての会の交わりの中で、たくさんの涙を流すうちに、かなり病んでいた私も、すこしずつ元気を取り戻し始めました。

そして迎えた、2014年の8月3日の日曜日の礼拝。わたしにとってこの日は、二度と忘れられない日となりました。

メッセージの中で、牧師が、神のひとり子イエスさまの十字架と、なだめの供え物について説明しようとして、例えをあげてこう言いました。

「もし、皆さんの友達が、自分を全く無視し、嘘をついたり、ごまかしたり、盗んだり、不正を働いたり、ついには殺人まで犯してしまったとしたら、どうでしょうか。その人のために、あなたは泣きますか?その人のかわりに逮捕されますか?その友達をたすけるために、あなたは、ご自分のこどもの命を差し出すことができますか?」

その牧師のいう、たとえと質問を聞いて、私は一瞬、心底、その牧師を馬鹿にして、心の中で言いました。

「は?なんでそんなこときくの?そんなやつのために、自分の大切なこどもの命を差し出す、なんて、そんな馬鹿なことをする親が、この世界にいるはずがないでしょ。あなた、こどもがいないから、だから、そんな馬鹿な質問をするんじゃないの?」

その時、私は、わたしの人生の中で、たぶん一番醜い顔をしたと思います。そして、その次の瞬間、その牧師が言いました。

「しかし、神は、そんなあなたのために、ご自分の子どもの命を差し出されたのです。」

私はその時、神様に、頭のてっぺんから、足の先まで、刀でずばりとまっぷたつに切られたような、気持ちがしました。それはまるで、天からの雷に打たれたような衝撃でした。

「神は、そんなあなたのために、ご自分のこどもの命を差し出されたのです。」

考えてみれば、小さい時から、私はいい子でした。いい子でいれば、親の愛が得られると、小さいながらに思っていたのです。クリスチャンになってもその生き方はかわらなくて、いい子でいることで、神の関心を得ようとしていました。それで、神さまが喜びそうな、神を信じるといういい子の道を行き、神さまにすべてをささげて牧師になる、といういい子の道を進み、宣教師と結婚して、家庭を捧げて伝道するという、いい子の生き方を貫いてきました。だれよりも神さまに愛されたくて、いい子街道をまっしぐらに突っ走ってきたのです。

そんな私ですから、私は、自分で自分のことを、神様のためなら、自分の命をもおしまず捧げられる、と、どこかで、そう思っていたのだと思います。でも、こども、という本当に大切なものが出来た時、そして、その大切な娘の命が、神さまにとられるかもしれない、というときになって初めて、やっと、私は、実は、私という人間は、本当に大切なものは、神様にだってだれにだって差し出すことなんかできない、そういう人間なのだ、という事実に向き合うことになったのです。その瞬間、私が私に対してもっていた、根拠なき美しき幻想は、木っ端みじんに砕け散ったのです。

入院している半年の間、私は何度も、神様が娘を天国に連れていく場合だってある、ということを考え、娘の死をも受け入れる覚悟を決めようと、神様どちらでも、あなたのみこころの通りになさってくださいと祈ろうとしました。それまでの人生のなかで、いつもそうやってきたように、娘を天に送りだす覚悟を決めようと、何度かこの賛美を歌おうとしました。

「感謝します」


感謝します。試みに合わせ、鍛えたもう主の導きを
感謝します。苦しみのなかに、育てたもう主のみこころを

しかし願う道が閉ざされたときは目の前が暗くなりました。
どんな時でもあなたのお約束を、忘れないものとしてください。

とまあ、こんなような歌詞なのです。ところが、「しかし願う道が、閉ざされ」というところにくると歌えない。願う道が閉ざされたら、絶対に嫌だ、娘が死ぬなんて、天国にいってしまうなんて、考えることも、想像することもしたくないくらいいやだ、と思っているから、この賛美が歌えなくなってしまったのでした。それならば、いい子ぶっていないで、神様、娘が死ぬなんて絶対嫌です、どうか娘を癒してください、と祈ればよかったのです。ところがおりこうさん、というのは困ったもので、本当の自分の願いは、怖くて口に出すこともできないのです。口にだしたところで、どうせ、神様は、私の願いをきいてはくださらないんだ、という神様に対する、不信もありました。

どう思われますか。皆さん、自分のように正しいものはいない、自分は神のためにはいつでも死ねる、なんでも捧げられる、と勘違いしている人を。そのくせ、いざ、自分の宝がとられそうになると、理不尽に思い、ふてくされる人を。皆さん、どう思われますか。神様に見捨てられるのが怖くて、自分の正直な願いを口にだすこともできないほど臆病なくせに、どちらでも、主のみこころのとおりにしてください、とうわべだけのおりこうさんの祈りばかりを繰り返す人を。どう思われますか。神様が自分をどんなに愛しているかを知りもしないで、想像力だけで神の愛を語る伝道者として、働き続けてきた人を。どう思われますか。こどものまだいないあんたに何がわかる、宝をとられるという経験をしていないあんたに何がわかるといって、牧師を馬鹿にしたその人を。皆さん、どう思われますか。それが、私の真実の姿なのです。

「しかし、神は、そんなあなたのために、ご自分のこどもの命を差し出されたのです」

牧師がそう言った瞬間、臆病で愚かで高慢でかたくなな、この私のために、神さまが、何にも代えがたい、大切なたった一人のこどもの命を差し出されたのだ、という事実が、私の心を深く貫きました。自分を裏切った友達のために、自分のこどもの命をさしだす?そんな馬鹿なこと、だれがするか!といって私が嘲り笑ったことを、神さまが、この私のためにしてくださったのです。そのときはじめて、生まれてからずうっとだれかに、愛されたくて愛されたくて、いい子を貫いてきた私の心に、神の愛が深く届きました。神様は、私がとても真似できないようなやり方で、ずうっと前から私を愛してくださっていたのです。この私のために、この私の罪をゆるすために、かけがえのないひとり子を、十字架につけるということまでして、私を愛してくださっていたのです。

その日私は、メッセージを語ってくださった牧師先生を、涙でぐちゃぐちゃになった恐ろしい顔でにらみながら、神さまが自分をどれほど愛してくださっているか、という福音を、私の人生の中で、初めて実感し、初めて体験したのでした。

娘の病という試練は、どうやっても神さまの愛を体験することのできなかった私に、神さまが、なんとかしてその愛を伝えようとして、わざわざ準備して下さった、特別な計画だったのだなあと、今、うなずくのです。


(8)適用

これが、私の人生におこった出来事です。今の私は、嵐のあとの晴れ間、一つの試練が過ぎ去り、ほっとしてるような状況ですが、皆さんの中には、今まさに、その試練の真っただ中にいる、という方もいらっしゃることでしょう。今まであんなにやさしかった神様が、急に敵になってしまったように感じたり、この苦しみは誰にもわからないと、孤独を覚えている方も、いらっしゃることでしょう。
私は、娘が癒されておきながら病むという、情けない姿を露呈したクリスチャンですから、皆さんの前で、えらそうに語れるようなことは何一つありませんが、ひとつだけ言えることがあります。あの苦しみの真っただ中で、神様に、「今のこの状況の私を慰めることが、できるもんならやってみろ!」と挑戦的な祈りをしたこともある、あの時の私に、みごとなまでに答えて下さった神が、あなたのその、魂の叫びを、かならずきいていてくださる、ということです。だから、まるで神様がいないかのような、「なんで?なんでこんなことがおこったの?」という問いは、やめてみてください。その代わりに、「何のために?神様、あなたは、なんのために、こんな出来事が、わたしの人生におこることを許したんですか?」と問うてみてください。その時に、神様が、わたしの人生にちりばめてくださったような数々の宝物を、時間はかかってもきっと、あなたも、みつけだすことができるはずです。


詩篇119:71、72

苦しみにあったことは私にとってしあわせでした。私はそれで、あなたのおきてを学びました。あなたの御口の教えは、私にとって幾千の金銀にもまさるものです。