沖縄の女性物理学研究・教育者へ、アドベントを前に、もう一遍の説教を」 ーエレミヤに学びアナトテに生きる―エレミヤ32:1−15

沖縄の女性物理学研究・教育者へ、アドベントを前に、もう一遍の説教を」
ーエレミヤに学びアナトテに生きる―エレミヤ32:1−15

(1)序
 1章1節に注目したい。
 「ベニヤミンの地にアナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば」とある。ここには、アナトテと言う一定の地域に根ざし生きるエレミヤの姿が浮き彫りにされている。
 アナトテは、エルサレムの北東約4キロの所に位置し、ベニヤミン部族の所領で、レビ人の町とされた(ヨシュア21:18、Ⅰ歴代6:60)場所である。エレミヤの生涯にとって、このアナトテに根ざし生きることがどれほどの深い意味があったのか、この課題を、32章1節から15節の興味深い記事を中心に思い巡らすことにする。そして、私たちも、一定の地域に根ざし、聖霊ご自身の助けと導きを受けつつ、みことばを味わい生き、生かされつつみことばを味わう特権と責任を改めて自覚できればと願う。

(2)32章の位置
 32章1−15節の内容を直接見ていく前に、この箇所がエレミヤ書全体の中でどのような位置を占めているのか、前後関係・文脈に注意したい。
何事によらず、全体を視野におき、その中でのこのことの位置づけをしっかり見定める。前後関係を的確に把握して、文脈・流れの中でことがらを目を見開いて見、耳を傾けて聴く。この一事は、何と言っても無くてならない態度であり、姿勢である。あらゆる分野の真に謙虚な職人・専門家は熟知している。
人でも、ものでも理解(アンダー・スタンド)する道。その狭き道を辿る者は、相手・対象の下に、己を捨てて跪(ひざまず)く。相手・対象の上に踏ん反り返ったりしない。また自分の全身を投げ出すことをせずに、斜に構える、そんなことは決してしない。
聖書を味わい、理解する場合も例外ではない。前後関係に十分意を注いで、文脈にそって読むこと、これは聖書の味わい・聖書解釈の第一歩であり、第二歩であり、すべてであると言っても、過言ではないはず。
32章1節から15節の位置・前後関係と言う場合、エレミヤ書全体の大きな流れの中での位置と、32章1節から15節の直接の前後関係、この両面を考える必要がある。

エレミヤ書全体における32章の位置

聖書を読み味わって行く際、自分が今読んでいる聖書箇所を取り巻く大きな流れを知っておくことは、現に対象になっている聖書箇所を理解するために、確かに助けになる。私たちの場合で言えば、エレミヤ32章1節から15節を味わうに当たって、エレミヤ書全体の大きな流れを知り、その中でこの箇所を位置づけることが、理解のため役立つ。全体の流れと言うのは、それ程詳しくなく簡単な分解でも、それなりに有用である。

(イ)1章−25章
この箇所を一つの大きな単位と見なすのは、理にかなっている。
「アモンの子、ユダのヨシアの第十三年から今日まで、この二十三年間」
(25章3節)、エレミヤが絶えず、しきりに語り続けてきたことであり、エレミヤの青年時代から壮年時代にかけて語り続けたメッセ−ジをまとめたものである。内容的には、ユダとエルサレルに対する災いの預言と見ることが出来る。

(ロ)26章−45章
 この部分は、エレミヤの後半生に焦点を合わせ自伝的な記述を中心としている。特に、30章から33章までの4章は、回復の希望と慰めに満たされた大切な箇所。32章1節から15節は、まさにこの大切な箇所に含まれている。

(ハ)46章−52章
 この部分は、諸国の民についての主のことば。青年エレミヤが預言者として召命を受けた時、主なる神がエレミヤに対して、
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、
  あなたを知り、
  あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、
  あなたを国々への預言者と定めていた」(1章5節)と語られ、
 「あなたを諸国の民と王国の上に任命し](1章10節)と約束なさっている。
 この箇所は、エレミヤの万国の預言者としての使命と関係がある内容で、52章は、エルサレム陥落とエホヤキン恩赦を中心とする歴史的記述である。
 以上、エレミヤ書全体の流れを垣間見ることを通して教えられるように、ユダとエルサレムに対する災いを、エレミヤは青年時代から壮年時代、そして老年時代に至るまで警告し続け、自らもその渦中に投げ込まれながら、なおも30章から33章に見る、回復と慰めを宣言している事実を注目せざるを得ない。
 
②32章1節−15節の直接の前後関係
次に、直接30章から33章に焦点を絞っていくと、興味深い事実に気付く。
 それは、31章31節から33節に見る、「新しい契約」(31節)と言う旧約聖書の中でも際立って重要な事柄と、33章15節に、「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽生えさせる。彼はこの国に公儀と正義を行う」と明言されている、ダビデの位に座するメシアについての預言――これまた最重要な預言――に挟まれて、32章1節から15節にアナトテの土地売買に関する記事が記録されている事実である。簡単に図式すれば。

 31章 新しい契約(31節)
      32章 アナトテの土地売買
 33章 際立つメシア預言(15節)

 一連の雄大で、慰めに満ちた回復のメッセ−ジの中心となる位置に、アナトテの土地売買と言う、一見ごく世俗的な事柄が登場している。この事実は、十分思い巡らす必要がある。

(3)アナトテの土地売買
この箇所で中心的な課題は、結局アナトテにある畑地の売り買いである。今日の感覚から言えば、町の不動産屋さんの店先で演じられる、いかにも世俗的な事柄と言っても過言ではない。確かに、現代的感覚のみで、エレミヤによるアナトテの土地売買を判断すべきではない。しかしそれでもエレミヤが当時の慣習にそくして、彼が生かされた時と場所の制約に縛られながら、現にアナトテの土地販売をなしたこと、それは事実。
 他の人々も普通になしている土地の売買を通して、エレミヤは主なる神のみ旨を深く洞察したわけである。自らの生かされている時と場所の制約に根ざす時、主なる神のみ旨を知り従う態度が次第に整えられて行く。聖書を記すために用いられたエレミヤの場合も、今、ここで聖書を味わい従い生きようとしている私たちの場合も、根元においては、同じ。そう言えないであろうか。
 32章6節から15節の箇所の中でも、13節から15節の部分を特に注意したい。
 青年時代預言者として召されたエレミヤも、四十数年の年月を経過して今や老年に達し、自らのいのちの限界を自覚している。その、ある意味でむごい現実の中で、次の世代へ続く希望にエレミヤは生きている。 「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。これらの証書、すなわち封印された購入証書と、封印のない証書を取って、土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ」(32章14,15節)とあるように、注意深い備えをなしつつ当時の慣習に従い、他の人々もなす一般的なことをエレミヤはなしているに過ぎない、そのように見える。しかしこの平凡に見えるアナトテの土地販売を通して、エレミヤは自らに委ねられているメッセ−ジを、時代の嵐を越えて、次の世代に明らかにして行く。こうして、神の恵みの継承にエレミヤはしっかりと生きている。
 まさに、エレミヤはアナトテに生きるのである。いかなる信仰に基づいてか。32章16節から25節に見る、エレミヤの祈りは彼の信仰がいかなるものであるか明示している。この祈りを熟読、心に刻みたい。天地の創造者、歴史の統治者、そしてイスラエルと惠の契約を締結なさる生ける神に、今、この場、このアナトテでエレミヤは底に徹して従う。
 さらに26節から44節に明らかに示されているように、エレミヤにそしてエレミヤを通してイスラエルの民に、さらに諸国民に語りたもう神に聴従しつつ、エレミヤはアナトテに生きるのである。

(4)結び
 私たちも、私たちのアナトテに生きることを学びたい。みことばを味わいつつ、私たちは生きる。アナトテに生きつつ、みことばを味わう。
 個人ばかりではない。各地域教会も、またしかり。各地域教会の歴史的、地理的、そして文化的背景に十分意を注ぎ、アナトテの課題を追求し続けるなら、各自の家庭、職場、学校などが自分のアナトテであるを悟り、そこに生き切る覚悟を新たに深める。
 さらに、私たちの生涯、わたしたちの存在そのものが、主なる神から与えられた私たちのアナトテである事実に気付く。この私が、私の生活・生涯においてみことばを食べて生きること、私が私らしくみことばに聴き従うことを、主なる神は、はなはだ善かりき(創世記1章31節)と・・・。この神の驚くべき肯定の一事を悟り、全存在をかけ、全生涯にわたってみことばに聴く。これこそ、エレミヤとともにアナトテに生きる道。
 各個人、各地域教会、各教派がそれぞれのアナトテに生き切る。そのとき、時代や場所を越えて広がる聖なる公同の教会の、掛け替えのない一部として、自らの存在意味を悟る。この自覚は、聖霊ご自身とみことばの導きによって、つねに改革され続ける、主の僕仲間(黙示録22章8,9節)の一員として、朝を迎え、夕を迎える生活・生涯へと導く。
エレミヤの場合と同じく、この私たちにおいても。