確かにさびしさも、同時に深い喜びも ー恵みの定点観測からの報告に共鳴その3

確かにさびしさも、同時に深い喜びも ー恵みの定点観測からの報告に共鳴その3

◎注宮村、矢澤先生の文章、鶴岡の地、そうです、荘内教会にしっかりと根を下ろしながら、時と地域を越えています。それは、聖なる公同の教会を信じ生きる矢澤先生の生活と生涯からにじみ出で来るものと私は理解しています。

☆以下は、数年前北インドのアラハバードの貧農の中で開発事業を行っている三浦照男先生を訪問した後記したものです。

私達の人間復活を助けてくれる貧民
矢沢俊彦

 三浦照男先生のお働きによって、もう無数の現地農民たちが人間的生活へと導かれています。でも同時に、“支援”しているはずの私ども自身が、失っていた人間性回復のために、どれだけ助けられているか、を繰り返し思うのです。
 “貧しさ”との出会いの衝撃は大きいものがある。恥ずかしい無知。さらに彼ら貧民の姿にまた驚く。子らの耀き、家族愛、はだしのリキシャ運転手たちが象徴する命がけの毎日、その頑張りとともに深い宗教心・・。
この飢えに苦しみ闘う人達が、人間や世界について一番根源的なことを教えてくれている!それに気づかずに、彼らを「支援」しようとしてきた大きな傲慢と偽善。彼らを追いつめてきた我ら大国の罪。それらを遅まきながら自覚したとき、私達はインドの大地に叩きつけられるのです。いったいお前はこれまで何を見聞きし、何を思い、何を論じてきたのか!
人間になりそこなっていた自分。でもインドの人々は立ち直らせてくれる。私達は激しく揺さぶられる衝撃の中で、死んでいた目や耳を、見開く。人間的感覚がよみがえり、この世界をまるで初めて眺めるような感動をもって、注意深く味わい始めるのです。・・・湧き上がってくる感謝と感激、また数々の反省や懺悔、また疑問や難問。でも私達の多くは、そこで初めて自分の頭でモノを考え、追求し始める。 貧しき人々に触れて、私達の目の色が変わる。喜び悲しみも深くなり、猛然と勉強を始める。無気力な生活が一変するのです!これは有難い皮肉です。インド支援どころか、事態は全く逆転しています。
「私達がどれだけのものを貧民に負い、教えられているか、・・・それは、天国に行ってからわかるでしょう」(マザー・テレサ)。

でも私達にはもうひとつ難問があります。それはこの日本での生活の悪魔性ともいうべき恐ろしさです。即ち、大きな感動とざんげを持ってインドから帰り、この国で生活しているうちに、元の生活に引き戻されてしまう危険です。理由は、それへと誘う誘惑や圧力や無数の情報が、一分のスキもないほど、私達を取り囲んでいるからです。対策は、重ねて現地に赴くこと、三浦先生や各地の同志との熱烈な交流、またこの『ニュース』などによる強い刺激、さらに宗教生活の充実がとても大事では?とにかくせっかく生まれかけている新たなる自分を「流産」させてしまわないために(山形県鶴岡市 荘内教会牧師)。

幻影の神から慰めの神へ
−聖アウグスチヌスの大転換−

 4,5世紀に活躍したキリスト教史上最大の人物。この人が青年時代、唯一無二の親友を流行病で失って悲しみ、神様を凶悪無残な敵と思った。しかしその後、新たな慰めの神を見出したという味わうべき物語(『告白』より抜粋)。
① 悲しみによって私の心はすっかり暗くなり、目につくものはすべて死となってしまった。故郷は「責め苦」となり、父の家はわけの分からない不吉なものとなり、友人と共有していたすべてのものは、彼なき今、恐ろしい苦痛に変わった。
② 当時の私の心は荒れ狂い、ため息をつき、泣き乱れて、安息も思慮もありませんでした。まことに私は引き裂かれ、血まみれになった魂を持ち運んでいました。
③ 私にとって当時知っていた神様は「幻影」みたいなもの。私はみじめでした。死ぬべきものにしばられている者はみなみじめです。このような心は、死すべきものを失うと、みな引き裂かれます。その時、悲惨を感じますが、実はその人を失う以前から同じように悲惨なのです。・・・そしてそのみじめな生を友人より大切に思っていたのです。・・死すべきものを死なないものであるかのように愛して、自分の魂を砂上に注いでいたのです。
④ 私は彼を奪い去った死を「凶悪無残な敵」であるかのように憎み恐れ、死が突然すべての人間を滅ぼし尽くすのではないか、と恐れました。死は友人を滅ぼすことができたのですから。実際わたしは他の諸々の可視的なものが生きているのを不思議に思いました。
⑤ 実際、私の考えていた神は、むなしい幻影であった。私の誤謬が私の神だった。私の魂を休ませるためにそこに置こうとすると、魂は空虚の中にすべり落ちて、再び自分の上に落ちかかってくるのでした。そして自分はそこにいることもできず、どこへ逃れることもできなかったのです。
⑥ (神よ)あなたを愛し、あなたにおいて友人を、あなたにおいて敵をも愛する人は幸いなるかな
 まことに滅びることのないお方において万人を愛する者だけが、親しき友を一人も失わないですむのです。その失われないお方とは、我らの神でなくて誰でしょう。それこそ天地をつくり、天地を満たしたもう神です。・・・
 あなたを捨てる者だけが、あなたを失うのです。
⑦ 主よ、あなたに向かって人間の魂は高められ、あなたにおいて私達はいやされなくてはなりません。

CSルイスの言葉から

★ (やがて)私達が愛する者のすべてを神様のうちに見出すでしょう。彼らにまさって神を 愛することによって、私達は彼らを今愛している以上に愛するだろう。
★ すべての心の状態は、放置すれば地獄となります。自我の牢獄の中に自ら閉じこもることは、結局は地獄に他ならない。一方天国は 心の状態などではない。天国は実在そのものなのです。真の意昧で実在するものは、天国を宿しています。
★ 自然は朽ち行くものです。人間は自然より長生きするでしょう。すべての太陽や星雲が消え失せるときにも、あなたがたのそれぞれは 依然として生きているでしょう。自然は表象、また象徴に過ぎません。・・・私達は自然の中を通って、自然のかなたに出て,今自然がおりにふれて反映する輝きのうちに入るよう呼び出されているのです。
かしこで、すなわち自然のかなたで、私達は生命の木の実を食べるでしょう。現在でも私達がキリストにおいて新たに生まれるならば、私達の内なる魂は、神様から直接に生命の糧をいただくのです。
★ あなた自身を大地の中でじっと冬をしのいでいる一粒の種と考えてごらんなさい。あなたは大いなる庭師の心にかなう時に、美しい花として真の世界に生え出るべく、真の目覚めのときを待っている種子です。
 私達の現在の生活は、かしこから顧みるとき、半ばは目覚めていても、半ばはまどろんでいるとしか見えないでしょう。私達は今夢の国にいるのです。しかし鶏が暁を告げるときが近づいています。
矢澤俊彦

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

雑記
○ 1枚の幼児画が私を打ちのめし再生を助けてくれます。(3月の保育園幼児画展に寄せて)
○ 去る2月10日私の母が101歳にて逝去。葬儀では私の復活信仰追及の歩みについて母とともに、若くして逝った父にも報告させていただいた葬儀であった。
○ つい先日小学校時代の同級の女性から房総の花が届けられて嬉しかった。またICUの元宗教部の職員Mさんから実に50数年ぶりに音信あり。驚愕。また元及び現ICU教授の御二人から多額の応援金あり。これも驚愕。

明治期の高雅なる恋愛の記録が
―『布施淡・(加藤)豊世往復書簡集』発刊―

矢澤俊彦

これはまことに珍しくも心洗われる今で言うラブレターの収録です。時代は130年以上も前、明治27,8年当時のもの。書き手の一方は布施 淡(あわし)。仙台神学校(現在の東北学院大)の美術の教師。他方は鶴岡ゆかりの人で加藤豊世(と寄席)、加藤紘一氏の大叔母に当たる人。当時彼女は横浜のフェリス女学校に学ぶ身でした。
この二人のおよそ300通にもなる「往復書簡」がこのたび翻刻され、全体で350ページにもなる立派な書物として発刊されたのです。
この事業を手がけたのは、フェリス女学院。明治3年にいち早く開校されたいわゆるミッション・スクールで、もう3年ほどで開校150年を迎えるための記念事業の一つとして取り組んだのです。この二人はその後結婚するに至るが、淡が約3年で病没。この書簡は豊0世たちが布施家の家宝として大事に保存してきたもの。
文体は美しい候文が主であり格調は高い。また二人のやり取りは当時の時代の中にあり、高い理想を求めつつ慕いあう、今読んでも深く心洗われる高雅なもの。仙台と横浜の長距離恋愛で、二人は青春を燃焼させただけでなく、その精神もしっかりと鍛えられたに違いありません。当時の社会の様子、自然風物なども。今見るように絵画的に記されているのはさすが。豊世はその後、東北学院長夫人の助手などとして大いに活躍。明治39年には、鶴岡で荘内婦人会に呼びかけて、遅れていた幼児教育の機関の創設をよびかけ。これが今の鶴岡幼稚園です。おそらくフェリスで体験した進んだ教育のことが念頭にあったことでしょう。

それでは、この書簡集からほんの少し紹介してみましょう。
「・・・たとひ愛兄が神を忘れ神を捨てんとし給ふても神は決して愛兄を忘れも捨てもし給はず ただ我児よ帰れと呼びかけ給ふは実に神の神たる愛の故と存じ申候 人神を離れては到底安堵は得られぬものと存じ候・・・私の為御心配被下るは誠にありがたき限りにへども私には却て願はしき事には御座なく候 私が世のただの女学生の如く栄利とか名誉とか地につける幸福をもて満足するものならばともかく今少し高く目を付けおるは愛兄のよく知り給ふ所に候・・・私の最上の願ひはただ心を一にして真面目に神の御旨をなさん為にすべての心と力を尽くす事に候・・・(183ページ、明治29年)−地元「荘内日報」誌掲載記事


加藤家は寛、幹雄、精三と続いたクリスチャン一族である。詳しくは、『荘内教会宣教物語』参照。もしこれを一読してみたい方は小生まで
(荘内教会牧師・同保育園長)