確かにさびしさも、同時に深い喜びも ー恵みの定点観測からの報告に共鳴その2

確かにさびしさも、同時に深い喜びも ー恵みの定点観測からの報告に共鳴その2

愛の神は人間を滅ぼさず
−3・11追悼市民礼拝に寄せて−
矢澤俊彦

★ 3月11日で、あの東日本大震災からもう6年です。荘内教会では、この12日(日)10時から、2万人にも近くなった犠牲者追悼の市民礼拝を行います。以下にこの6年間、私の考えてきたことを少しまとめてみました。貧しくてお恥ずかしいのですが・・。

水も空気もつくれない人間
★ 「神も仏もあるものか」・・・当初叫ばれた悲しみの声です。でもこの災いを神様のせいにはできません。むしろ、どれだけの恩恵を無償で受けているか、を思わねばなりません。実際私達は、ほんのわずかの水や空気だってつくれはしない。衣食住のすべてが、もう圧倒的な神の恵みの中にあるのです。神様を離れては、もう一瞬だって生きてはおれないのです。「神は死んだ」、とは何という考え違いでしょう。

あらゆる危険の中の人間
★ しかし実際、私達はまたあらゆる危険や災いに取り巻かれており、それに対し、もうほとんど無防備に近い。事実「防災」の声もむなしく響くのです。即ち、私達はいつもあらゆる種類の自然災害、戦争や争い飢餓そして無数の病気や事故というもの。そして避け得ぬ老いや死にとり巻かれています。これを思うとイヤハヤ、きょうまでよく生き残されてきたもの、と思わざるを得ません。

恐るべき怠惰なる人間
★ 多くの災いや悪は、私達人間がつくり出しているもの。これについては、もっと深刻な反省が必要なのに、人類の大部分はいたってのんきなもの。これも生命力の源かもしれませんが、見方を変えれば、恐るべき怠惰のうちに眠りこけている、と言えそうです。何が起こっても存外平気なのですから。水をかけられた犬が、ブルッと体を震わせて、何ごともなかったように立ち去る。こうして戦争や災害その他多くの悲惨事を過ぎ越してきたように思います。こんな状態で、私達はとても幸せにはなれそうもない、ほんのつかの間の安心もなく多くの災いに「無防備」であるからです。

人生の難破から救う宗教
★ 優れた宗教は、人生の暴風雨の中で、難破しない道を教えています。キリスト教では「祈り」です。キリストという門を通って、神の思いに接近することで、心に「天国」が創造される、という。これだけでは分かりにくいでしょうが。そこで、いつ何が起こっても動じない、深い安心と満足感・・・これこそ私達が求めているものではないでしょうか。

愛の神は慈父以上です
★ さらに聖アウグスチヌス(4,5世紀の人で、歴史上最大の思想家)は、神様を深く愛する人は、愛する人を一人も失わない、と深い慰めに満ちたことを記しています。実際、愛なる神が人間を滅ぼすことなどあり得ない。みんな永遠的生命を与えられて天国に迎えられている。それは地上の父母が絶えず我が子を思う以上に、はるかにそうなのです。

心中に天国が創造されて
★ 3月12日に行う追悼礼拝は、2万人近い震災犠牲者を思い起こすだけではありません。「愛の神は彼らを滅ぼさず」と、祈りによって確信し、私達の心の中に創造される「天国」に、彼らを迎え入れようとしている。そしてこのことを、今後も日曜ごとに続けるのが教会の追悼です。

「目覚めよ」との大合唱が・・
★ すべてのものは消え行くようです。自然は確かにそうです。草は枯れ、花はしぼむ。でも人間は木石にあらず。自然より生きながらえ、神と共に天国を楽しむのです。すべてが滅び行く中で、「実在するのは天国だけ。私達は消え行く自然のかなたで、命の木の実を食べるでしょう」(C・S・ルイス)。
★ 「さあ、同胞たちよ、眠りから目覚めよ、元気を出せ」、との大合唱が天から聞こえてきそうです。
鶴岡市本町3丁目 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)