「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開③

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開③

第十二話 「仲間を赦さない家来」のたとえ(マタイによる福音書 第十八章二一〜三五)

そのとき、ペテロがイエスのところへ来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

今日の聖書のお話のはじめに、ペテロさんがイエスさまに尋ねます。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」すると、イエスさまがペテロさんに、「あなたに言っておく、七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」とおっしゃいました。


わたくしたちは、ときどき、兄弟やお友達と仲たがいをしたり、何かの事情で気まずいことになって、腹を立てていたりすることがあります。そのようなときに、お父さんやお母さん、あるいは学校の先生に、「赦してあげなさい」と、言われたことはありませんでしょうか。赦すと言っても、そう簡単にあっさりと赦せない。そのような経験はありませんでしたか。

わたくしも、「赦すということ」がほんとうに難しいなあという経験を、一杯積んで大きくなってきたと思います。
たいていは、心から相手の人を赦してあげるということよりも、仕方がないからとあきらめてしまうとか、めんどうだから関わらないでほったらかしにしてしまい、いつの間にか忘れてしまっている、そんなことが多いのかも知れません。それは、本当に心から赦したことになっていないと、イエスさまに言われそうです。

ペテロさんが、「七回まで許せばよいのですか」と尋ねていますが、イエスさまは、「七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになっています。七の七十倍とは、「無限に」という意味だと、聖書を研究している学者は説明しています。

わたくしたちが生きていく間に、無限に心から人の罪をゆるさなければならないということは、一体全体、わたくしたちに出来るのでしょうか。いいかげんな赦し方なら、なんとか出来るかも知れません。でも、心から本当に赦すとなると、それはとても苦しいことかも知れません。

人を赦すことができないので、苦しい思いをしている人、悲しみに暮れている人は、この世に少なくないと思います。苦しみや悲しみの果てに、病気という牢屋に閉じ込められている人もいるかも知れません。相手を赦せないために、いつまでも相手に憎しみがつのり、戦争になっていることもあるでしょう。とても恐ろしいことです。

それでは、わたくしたちはどのようにしたら、わたくしたちに対して罪を犯した人を、心から赦せるようになるのでしょうか。そこで、イエスさまが、今日の聖書の中で、王さまから莫大なお金を借りていた人のお話を、たとえとしてされました。

ある家来が、王さまからお金を借りていました。一生働いてかせいでも、返しきれないほどたくさんのお金でした。はじめ、王さまはそのお金を返してもらおうと思いました。すると、家来は「自分のいっさいのものを売り払っても、いつかお返ししますから、待ってください」と、王さまにきっと泣かんばかりに願い出たのだと思います。王さまは、そんな家来の様子が憐れに思われて、心から憐れみをもって、「それじゃ、貸したお金は全部返してくれなくてもいいことにしよう」と、赦してくださいました。家来はどんなに救われた思いになり、うれしかったことでしょう。

しかし、その喜びも束の間のことでした。じきに王さまへの感謝を忘れてしまいました。王さまの宮殿から外へ出ると、もう忘れてしまったのです。外で仲間に出会いました。すると、その仲間にほんの少しばかりのお金を、自分が貸していたのを思いだしたのです。今しがた、王さまに赦していただいたことなど、ケロリと忘れてしまって、仲間にはすぐにでもお金を返してほしいと言って怒り出しました。
そして、「どうか待ってくれ。返すから」と、赦しを願っている仲間を、牢に閉じ込めてしまいました。
王さまとこの家来と比べてみて、わたくしたちは、あまりにも大違いな結果にびっくりします。

莫大なお金の返済を赦してくださった王さまとは、実は父なる神さまのことです。少しばかりのお金の貸しを赦せなかったのは、人間のことです。神さまが、わたくしたち一人一人にそれぞれあった仕方で、無限に恵みを示してくださっていますのに、その大きな恵みを、ケロリと忘れてしまいますと、わたくしたち人間は自分に向けられた人の罪を、どんなに小さくとも、赦すことが出来なくなってしまいます。

先週の日曜日に、S先生のお話の最後のほうに、「神さまは愛です」と言う、美しい言葉がありました。J子ちゃんは、そのとき、「なんだか、難しくてわかんない」と、ささやいていました。本当に難しい、それでいて無限に美しいひびきがあります。

でも、神さまの愛とは、そして、神さまが愛そのものだということは、つぎのようなことではないでしょうか。
「神さまがイエスさまという、み子をわたくしたちに贈ってくださったこと。そして、イエスさまを十字架に犠牲にしてまでも、わたくしたち一人一人の罪を赦してくださったこと。」
その神さまの赦しこそ、愛なのでしょうと信じます。
そして、イエスさまの深い深いやさしさに感謝を忘れないとき、わたくしたちも誰かを心から赦せるのかも知れません。

父なる神さま。
エスさまへの感謝を、いつも絶やさないよう、わたくしたちをお守りください。アーメン。
一九八九・七・二