「このときのため」(エステル4:14)−2014年4月、クリスチャントゥデイの働きに参与するための備えーその3

「このときのため」(エステル4:14)−2014年4月、クリスチャントゥデイの働きに参与するための備えーその3

「この40年、−日本福音主義神学会の一員として−」③
(『福音主義神学』40周年記念号寄稿)
 宮村武夫

(3)先輩説教者との出会い
 沖縄での神学的営みは、それなりの課題をめぐるものです。しかし何よりも人と人とのの出会いが中核で、少なくない方々との主にある恵みの出会いを与えられ感謝です。
その中で、先輩説教者お二人、いや三人との出会いは特に忘れがたいものです。

①金城重明先生
2010年8月9日午前中、通所リハビリ施設つばさでリハビリ中に、沖縄戦の真実の証人・金城重明先生から携帯へ電話がありました。午後2時からNHK教育テレビ「こころの時代」の番組で、金城先生の対話・「人は希望によって生きる」の再放送があるとの連絡。
 最初の放送の時は、私一人で見ました。2009年12月13日NHK教育テレビの「こころの時代」の時間で、12月18日に脳梗塞発症・入院の直前でした。
 放送の翌日12月14日(月)那覇中央教会朝祷会で語ったのが、私にとり脳梗塞発症前最後の説教でした。
 那覇中央教会の朝祷会は、金城先生との交わりにおいて特別な意味がある場です。
最初に朝祷会で説教した際、司会の教会先生が、「宮村先生は、沖縄の教会の宝です」と紹介なさったのです。いくらなんでもと耳を疑いました。
 しかし金城先生の心は、私のような者に見る生き方と切り離さない徹底した聖書信仰で、それなくして沖縄での教会形成はありえないとの主旨でした。
 金城先生ご自身が十代の時、極限状態の渡嘉敷で、南洋群島から引き揚げてこられた棚原俊夫さんから、「この本を読んでごらん」と差し出された聖書。その聖書に引き込まれるように読んでゆく。その後の先生の生活・生涯のすべては、この聖書との出会いが基盤で、聖書の導きによるのです。
「聖書のみにすがって生きる」(『本のひろば』2010年6月号、佐藤全弘師書評)者として、私なりに金城先生からバトンタッチをしっかりと受け止めたいと切望するのです。
再放送の時は、君代と一緒に見ることが出来、番組を見終わった直後、金城先生に深謝の電話をいたしました。

②蓮見和男・幸恵ご夫妻
 蓮見ご夫妻との出会いは、2003年4月24日〜29日、J.モルトマン先生が沖縄を訪問された際、ご夫妻がご一緒に同行なさったときのことでした。
通訳の労で多忙な蓮見和男先生。しかし幸恵先生は、比較的ゆとりがあるご様子。ごく自然な流れで声をお掛けしたのに、間もなく話しが弾み、先生が日本女子大のご卒業生(英文科と思ったのに実は家政科)であることや、ある期間『聖書』の授業を私が女子大で担当したことなど話題が大いに展開したのです。
 そうした中で、幸恵先生が女子大の聖書研究会やその卒業生会のことをご存知ないと知りました。失礼を省みずに言えば、「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」(ローマ11章4節)状況の中で、「私だけが残されました」(ローマ11章3節)と訴えるエリヤの姿を連想したのです。
 そこで、聖書研究会のOG会の存在を、あたかも自分がそのメンバーであるかのように心を熱くしてお伝えし、また新井明先生の著書、『ユリノキの木陰で』(日本女子大学英文科、2000)と『湘南雑記――英学徒の随想』(リーベル出版、2001)をお貸ししたところ、
幸恵先生は、滞在中のホテルで、これらに目を通してくださいました。
 他方、蓮見幸恵先生について、このように優れたOGの神学者が現に活躍なさっているとM姉を通し聖書研究会のOG会にお伝えしました。
ですから幸恵先生から、「過日女子大聖研のOG会の方からお便りをいただきました」と連絡を受けた時には、とても嬉しくなりました。
 青函トンネル工事で、北海道側からと青森側から掘り進めたトンネルが一つになった瞬間の喜びに比すべきもの、オーバーに言えばそうです。

 蓮見和男先生との出会いは、モルトマン博士招聘委員会編、『人類に希望はあるか』(新教出版社)が糸口でした。同書を沖縄キリスト教書店で目にし、拾い読みしていると聖公会の会館での講演会『平和の建設と龍の殺害―キリスト教における神と暴力』のことを蓮見先生が記しておられる文章が目に止まりました。講演会の質疑において、質問はすぐに同時通訳しドイツ語で伝えるが、モルトマン先生の回答を日本語に通訳することは体力的に疲れるので、モルトマン先生の回答は英語で、それを日本語に通訳する段取り。ところが英語の通訳者の都合でピンチヒッターと選ばれた宮村が、「すばやい、しかも的確な通訳」(同書、95頁)をしたと英語力について言及。
 さっそく手紙を差し上げました。あれは英語力ではない。神学力によるのだと。
モルトマン先生と同様、私なりに聖書ですべてを見・読み続ける営みを求めてきたので、モルトマン先生の話の大意を、実際に耳で聞く前に心で受け止めており、耳で聞く際は細部に意を注いで通訳したのだと。
 この手紙が切っ掛けとなりその後便り・資料のやり取りが始まったのです。
さらにご夫妻を訪問のした際バックナンバーを受け取り、その後隔月に恵送して頂く、『ドイツ教会通信』の熟読は、至福の神学力養いの機会です。

(4)脳梗塞発症・100日の入院を基点に二つの広がり
2009年12月18日(金)、脳梗塞のため那覇市立病院に入院、明けて1月13日(水)リハビリに集中するため大浜第一病院へ移ってから100日の入院生活の日々、多くの方々の祈りと好意に支えられ、4月4日のイースターを前に、4月2日(金)退院できました。
この発症・入院の経験は、1963年から1967年のアメリカ・ニューイングランドへの留学に匹敵する深い学びのとき、しかも短期集中で楽しくて、楽しくて仕方がない毎日でした。

12月18日(金)夕方、ライフセンター那覇書店の仕事から帰ってきた妻君代は、様子が普通ではないのに気づき、一晩寝れば大丈夫と威張っていた私を、脅したり、賺したりして病院へ連れて行ってくれました。君代の母親は脳梗塞だったのです。
病院では、直ちに治療開始。しかし、一晩経過した時点で、左半身不随、丸太となってベッドに横たわっていました。
その時、「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました」(詩篇119・67)との詩人の告白は、私の告白ともなりました。主の導きで大浜第一病院に移った後、日本クリスチャン・カレッヂで3年先輩であった宮谷宣史先生の新しい訳で、アウグスティヌスの『告白録』(教文館 上・1993、下・2007)をそろそろと読み始めました。
またそのどん底の状態の中で、からだをめぐる思索、医療従事者の方々との出会い、医療のあり方についての考察など貴重な経験の第一歩を踏み出せました。
病院では、一日3時間のリハビリの連続。日々、楽しみながらリハビリを続ける中で、私のうちに一つの事実が生じました。からだの奥から笑いが満ち溢れてくるのです。箸がころんでも笑う年頃の娘のあり様で、夜となく昼となく「ウフフ、ウフフ」なのです。脳梗塞のため、どこか緩んでしまったのではないかと君代が訝るほどでした。
そんな日々の中で、詩篇126編その1〜3節を読んでいるときに、「これだ!」と心に受けとめました。
「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
『主は彼らのために大いなることをなされた。』
主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。」
リハビリの一つは、言語治療です。治療者の熱心な指導のもと舌の動きに集中しながら発声訓練。「舌、舌」と生涯でこれ程「舌」を意識した日々はありません。「私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」とは文字通り私の実感なのです。
誤解を恐れないで言えば、脳梗塞後リハビリの経験は、小さな小さなスケ−ルでのバビロン捕囚からの解放であり、解き放ちの喜びを自らの存在の基底に覚えるのです。
 そうした日々の中で、二つの恵みの波紋が心のなかでの広がりました

①埼玉在住の文芸評論家・松本鶴雄
1960年代後半埼玉県寄居で出会った文芸評論家松本鶴雄さんと、入院中直接連絡が取れたのです。2009年11月に出版した、著作集Ⅰ『愛の業としての説教』(ヨベル)を送付していたところ、松本さんから電話、さらに丁寧な読書感想の便りを受け取りました。
電話では時空を越えて話が弾み、その後、交流の絆を体現する、松本さんの著書・『神の懲役人─椎名麟三 文学と思想』(菁柿堂)が遠く沖縄まで送付されて来ました。
私は応答として、松本さんを中心とする同人誌『修羅』に参加の手続きを取りました。
50年にわたり説教を続け、神学論文やエッセイなどの文学類型で書き発表してきました。しかし今回入院中に経験し思索した内容を表現するには、それに相応しい別の表現方法や場があるのではないか考え始めていたところでした。長い年月絶えることのなかった、松本さんとの交流に後押しされて、『修羅』61号に「アンヨをもって、テテもって」を投稿、71歳にして新しい小さな一歩です。

②人間・私・からだの三位一体的支え
脳梗塞発症後100日余の入院中、吉嶺作業療法士による入魂のリハビリの積み重ねで左手の指一本が発症後初めて1ミリ動いた瞬間、自分はからだ・からだとしての私を徹底的に自覚したのです。
同時に、からだ・人間・私は、まさに人格的存在。そして永遠の愛の交わりである三位一体なる神こそ、人格的存在人間・私の根源的な支えと確信は一段と深まりました。
「存在の喜び」(著作7『存在の喜び』)とは、徹頭徹尾からだである人格的存在としての人間・私に注がれ溢れる喜び。この「存在の喜び」を、不自由な左手・指や杖を用いて喜びカタツムリの歩みをなしながら、しみじみ味わい知りました。
そして喜びの応答です。永遠の愛の交わり・三位一体なる神こそ、まさに人格的存在である人間・私の根拠である事実を、ヨハネ福音書からの説教・宣教において展開できればと願い、入院中の読書会また退院直後の主日礼拝で小さい一歩を踏み出しました。
さらには、医療の現場や医学教育における、三位一体論的根拠付けを展開できないか思い巡らしを始めたのです。
たしかに自動車修理工場における故障車と総合病院における患者の間には、類似関係があります。故障車の各部品を冷静に客観的に検討しながら車全体の修理がなされ正常な車として回復する。病院における患者に対しても、同じく冷静さと客観性が求められるのは確かです。
 しかし同時に、自動車修理工場における故障車と総合病院における患者の間には、明確な区別性も、当然ながら認める必要が絶対あります。
ところが現実には、この当然なこと、絶対必要なことが軽視されたり、見失われたりしていないか。要の一つは、医学教育のあり方であり、この点は、私なりに見聞きし関わって来た神学教育に対する私の不安と不満に相通ずると判断しています。

現時点で二つの基盤を思い巡らしています。
A。からだの贖い、からだのよみがえりめぐる三焦
 以下の三つの箇所が代表する私たちの生身のからだとその贖い・復活を、正面から見定める地味な作業を心に期すのです。
①ロ−マ8章23節
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」

②ピリピ3章20節
 「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

使徒信條の頂点・まとめ
「……罪のよるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン。」

B。エイレナイオスに導かれて
対グノース主義(からだの軽視、無視、さらにからだに対する敵視)に焦点を合わせ、聖書全体から対応しているエイレナイオスの『異端駁論』に見る主張、この先達の正しく、深く豊かな神学的営みを掛け替えのない手引きとして。
  エイレナイオスの論敵は、Ⅰコリント15章50節「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(Ⅰコリント15章50節)を口実・根拠に主張します。「血肉のからだ」、つまり私たちのからだは神の国を相続できない、救いの対象ではない。それゆえからだをどのように用いても救いに関係ないと勝手気ままな生活・生涯に走ります。
 こうした 全体から孤立した聖句を口実に、物質を悪と見、からだを蔑視する考えをあたかも聖書の教えであるかのように主張し人々を惑わす論敵に対して、エイレナイオスは鋭く対決します。そうです。聖書を貫く三本の柱に注目し、エイレナイオスは聖書全体の雄大な展開を視野に入れながら、特定の聖句、たとえばⅠコリント15章50節の意味を深く豊かに汲み取ります。

聖書を貫く三本の柱
①天地の創造者と天地万物、創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した。」
 目に見えないものも見えるものも、その全体を創造者なる神が創造し、保持なさっているとエイレナイオスは強調。それゆえ目に見える万物の全体が、神の創造のみ業であり、また救済の歴史にその場を与えていると雄大な広がりに信仰の目を開くのです。

②御子イエス受肉の事実、真の神にして真の人
 ヨハネ1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
 「子は受肉し、人となった時、人類の長い伝統を自分の中にまとめ、総括的に救いを私たちに与えた」(『異端駁論』三・18・1)。
 からだをふくむ人間の全体、その意味で真の人となられたのです。それはからだを含む私たちの全存在が救いに与るため。

③からだを含む全人格・全人間
 人間をからだと魂、霊を分離してしまうのではない。からだを含む全存在が、聖霊ご自身の導きのもとに導かれ、父なる神の意志を行い、キリストの新しさへと導かれる。

[4]集中と展開
25年の沖縄での生活と西部部会での歩みを経て、結び・出発点に今立つと自覚。
25年の歩みを踏まえて、今何に集中するのか、これからどの方向を展望するのか。
集中 
日本センド派遣会理事会と相談、2011年4、5月に沖縄から東京へ移住を検討。

展開
①25年の沖縄での生活で出会った方々に祈り支えられて東京へ。深川に生まれた者として故郷東京下町を視野に入れ、千葉県市川市の聖望キリスト教会と宇都宮キリスト集会  に根差した、Ⅱテモテ4章2節の勧告への応答。
 聖望キリスト教会は、10余年前、開成中学1年時のクラスメイト大竹堅固君宅で家の教会として主日礼拝をスタート。最初から現在まで、年に4回主日礼拝と午後の集中的組織的聖書の味わい聖書味読会を私は担当。背後には大竹兄のご両親の戦前からの祈り。

②高校生時代キリスト信仰に導かれ、最初のキリスト証言の場だった母校。
同窓生の祈りの群れペン剣祈祷会に根差して母校関係者への宣教。

③西部部会から再度東部部会への道を求めて。