1990年代、沖縄から、高橋三郎先生への手紙 その6

1990年代、沖縄から、高橋三郎先生への手紙 その6

★「すでに」と「未だ」、さらに「やがて必ず」の三側面持つ、新約聖書を一貫する終末論的あり方を、文通を通しても教えられ確認しました。


「頌主
 昨日、『十字架の言』八月号を受け取りました。一号、一号どのような中から送られてくるかその重さを実感しております。
 「無教会のゆくえ」、心に刻まして頂きました。「神の言は受肉し、キリストのエクレシアは目に見える生命共同体として具体的な『からだ』を持つという点」との御指摘、私ども今主日礼拝でⅡコリントを味わいながら教えられております。特に五章を通し。

斉藤先生の文章も、「高橋集会に直接結びついてはいなくとも」の一人、さらに斉藤先生のように高橋三郎先生の国際基督教大学での新約聖書学の学生でもなかった私ですが、『十字架の言』を通し受け続けた恵みへの感謝を代表して言い現わして頂いたように思いました。
 
台風12号の影響を受ける中、15日から17日まで伊江島中高キャンプに家族三人で参加しました。1993年12月1日、先生宅を訪問させて頂くことを許され、貴重な助言をお聞きできました。伊江島主僕高校の幻など、人間的には誰も相手してくれなくて当然な話でしたのに。
主僕高校として目に見える形での前進はありませんが、主にある戦友である重元牧師が、伊江島中高生キャンプの中に、主僕高校の夢は実現されつつあると指摘してくださいました。「すでに」と「未だ」の両面性を持つ、新約聖書を一貫する終末論的あり方の一つの現れとして受け取るべきことを教えられております。
 高校生時代、主イエスの救いを伝え聞き、主にある高校生の交わりを継続、その広がりを味わっている者の一人として、中高生に主イエスの福音を伝えたいとの素朴な願いです。高橋先生の日々の上に特別な導きを願いつつ。感謝して
 96年8月20日 早朝 宮村武夫 
高橋三郎先生
「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主、私たちの救いであられる神」
詩編68編19節」