教会のキャンプか,キャンプの教会か

教会のキャンプか,キャンプの教会か
伊江島キャンプの小さな試み−

★沖縄での25年の恵み、その一つは何と言っても、伊江島中高キャンプです。
下の絵は、伊江島のシンボル・タッチュウ。
上の写真は、そのタッチュウの頂上で。伊江島中高キャンプのキャンプの旗をプリントしたTシャツを着た私。

少し前になりますが、徳丸町キリスト教会牧師の朝岡勝先生が、信州夏期宣教講座で講演なさった、「『伝える教会』から『仕える教会』へ教会の刷新のために」を興味深く読みました。
 勝先生が2011年3月11日と1995年1月17日のあの経験により受け止めた課題、そこからの提唱を熟読しながら、伊江島キャンプでの経験との深部における繋がりを覚えました。
 また朝岡勝先生の存在に深くしみこんでいる、3代、4代に及ぶ、松原湖バイブルキャンプの尊い影響を思わざるを得ませんでした。

 以下、沖縄時代に書いた伊江島キャンプについての報告を、朝岡勝先生の提唱への共鳴として引用お伝えします。

[1]序
 沖縄本島北部本部半島北西東シナ海に浮かぶ伊江島を、今沖縄のパトモスと見て、中高生キャンプを春と夏、同労の牧師方と積み重ねています.
 伊江島キャンプと言っても所有する土地も建物もなく、村営のキャンプ場にテントを幾つも張り、小さな営みを続けているのが実状です。
 では何もないのかと言えば、そうでもなく、かなり明確な志があり、それなりの方法論も確立しつつあります。伊江島中高キャンプで何をどのようにしているのかその実状を、またなぜそうするのか、そうしないのか伊江島キャンプの意図・心の一部を報告いたします。

[2]何を、どのように
 伊江島中高のキャンプにも、それなりの前史があります。
東京農大出身石川福音教会牧師・重元清先生が中心になり、愛農高校卒業の私どもの長男・忍望がお手伝いをし、首里福音教会の中学生を中心に農業キャンプを計画、実行していました。 
その種が、日本福音キリスト教会連合沖縄地区六姉妹教会が取り組む、伊江島キャンプへと発展したのです。その基盤には、六姉妹教会の主にある交わりがありました。
 しかし同時に実際的なスッテプにも注意を払いました。伊江島中高キャンプとしてスタートする前に、教育学を専攻する田頭真一先生をお招きし、二つの点に絞った実に充実した学びのときを重ねました。
①教会におけるキャンプの位置づけ
②個人の人生におけるキャンプの位置づけ 

次第に、キャンプは単に教会の一部,一プログラムではないと考えるようになり,本来の教会のあり方である全人格的また全生活的交わりの場としてキャンプがある,誤解を恐れないで言えば、キャンプこそ本来の教会のあり方であり、キャンプが教会と心に刻むようになりました。

 まず1993年、春休みの期間に第一回春の中高生キャンプをテントで。
しかし小雨だったこともあり、いくら沖縄でも三月にテントではと言うことで、翌年からは民宿。
 春のキャンプの特徴は、1996年から社会の現場で職業を通し、なる神に献身し仕えている方々の証を中心に据えていることです。
1996年は、「キリスト者職人としての喜びと祝福」との主題で、エリヤ畳店自営の桃原兄。今年は1997年は、「病院で働く人々ーこんな仕事も病院でー」(オリブ山病院院長与那原兄)、来年は弁護士の細田兄で、「神の律法,日本の法律ー面白いよ司法の仕事ー」。
 
場所は、今年から伊江島で有名なリゾートホテルで。
本部港までクルザーで迎えに来てもらい、一同大満足。
 
夏のキャンプも、1993年から開始。最初の年は、男子はテント。女子は一軒家を借りて宿舎に。
ところが女子から、「私たちもテントで」の声が上がり、その後は全員テントに。
夏のキャンプには、最初から県外からも参加者があり、その人々を中心に二泊三日の伊江島キャンプの後、石垣と西表のやはり二泊三日のコースへ向かうようにしています。
 夏のキャンプは毎年台風に直面し、「台風の神学」の形成へ踏み出しながらの営みです。昨年からは、沖縄地区の日本同盟教団と日本福音キリスト教会連合の教会の牧師が協力して、青年キャンプを始めました。これは、中高生キャンプからの自然な導きであると共にその将来は私たちの思いを越えた意味を持つと確信しています。

[3]伊江島キャンプの意図・心
 伊江島キャンプの営みで、何を、どのようにするにしても、心を込めてする。
何か話し合い決定したら、実行する。このことを心がけて来ました。ですから簡単に報告しましたキャンプの実状の背後に、一寸の虫にも五分の魂的意図・心があります。
(1)なぜ島で
 沖縄の中でも,何かと不便な離島でキャンプ,「なぜ」.繰り返し聞く質問です.
 聖書の地理的センスを身に着けたいためです.内村鑑三の初期の著作,「日本の天職」,『地理学考』などに見る,地球儀上の日本を聖書で見る地理的センスをです.
 キリストの再臨に宇宙の完成,新天新地を待望する平和の道を歩む備え,富国強国,脱亜入欧,あの名による道への否を言い続けるための整えなのです.日本の近・現代を貫く二つの流れを見据え,ヨハネの黙示録に凝縮している御声に聴従する生活・生涯への根の養いのため.ホラに聞こえますか.

(2)まずキャンパーとして.
 キャンプが教会.本来の教会の姿を求めての営みです.牧師である前に一信徒であり,生涯一信徒である喜びを,スッタフである前にキャンパーであることを通して伊江島で経験.日本福音キリスト教会連合の沖縄地区の牧師は皆,まずキャンパーとしてキャンプ費を払って参加.牧師同士が心を開いて( コリント7章)共同牧会を実践する中で,これこのように生きるのだと中高生へ伝える.各個教会主義の一見美名のもとに,各個牧師主義になり,公同の教会,教会の公同性がゆがめる危険性がないか自ら戒め,そこからの解き放ちを求めての小さな試みです.

(3)「聖書を」と「聖書で」
  聖書に何が,いかに書かれているか聖書を読み,伝えるだけではない.生活・生涯のただ中で聖書に傾聴,聖書で人生,世界,宇宙・万物を読む道を求める.セクト主義やレッテル主義との戦い.無教会からカトリックをいつも視野に入れ,ミカ書6章8節やマタイ6章21節などを大切に,「急がば廻れ」の思いで,神学教育やカレッジのあり方の確立のため根の営みを求めも良いのではないかと考えます.

[4]結び
 教会は本来,現在の病院,ホテル,学校,食堂,農場などの役割を含む,全人格的な交わりの場であったはず.この原点を大切に,伊江島キャンプは,一つ一つのこと,一人ひとりのかかわりに心を込める営みであれば,幸いであり,嬉しいのですが.