「聖書メガネに、取材拒否を受ける恵み」

「聖書メガネに、取材拒否を受ける恵み」
 
2014年4月から、クリスチャントゥデイの編集長としての歩みを始めて、意外な経験の一つは、取材拒否を受けることです。
 これは、取材に当たる記者の場合、より直接な葛藤です。他の報道機関から移られてこられた方々は、取材拒否など初めての経験だと戸惑われるのです。
 それも無理のないことです。相撲取りが、土俵の下から土俵に上り、いざ勝負と集中する矢先、土俵に入ること自体を拒絶されるのですから。
 クリスチャントゥデイの取材は受けないことになっている、遠慮ください。思考を停止、現実に向き合わず、平然と取材拒否がまかり通るのです。土俵に登れなければ、勝負になりません。

 しかし良くしたものです。俗に言う通り、
「捨てる神あれば拾う神あり」なのです。
  確かに一方では、自分自身の確信と覚悟からではなく、組織の縛りや噂をもとに取材拒否がなされる、しかし他方では、自分の目と頭で、クリスチャントゥデイの紙面を実際に読み、自らの主体的な判断をなす。取材を受けるばかりか、執筆を引受けて下さるのです。
 思わざる方々のユニークな入魂の文章が、紙面に次々と登場する準備が導かれています。
「黙れば、石が叫びます」(ルカ19章40節)。
 
取材拒否を受ける経験は、記者個人にとっても恵みとなっています。
平然とあるいはびくびくしながら取材拒否する側ではなく、明確な理由も示されずに取材拒否を受ける側の視点に立ち、この世の現実を取材し記事に書けるのですから、まさに取材拒否を受ける恵みです。