聖書をメガネに 時は、御手の中に(その2)

聖書をメガネに 時は、御手の中に(その2)

聖書に見る時・時間の基本理解を確立するため、大切な手引きとなるもう一つの聖句は、マタイの福音書1章1節「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図」です。

新約聖書と私たちの間でも、約2千年の隔たりがあります。

聖書と私たちの間に横たわる長い時代の隔たり・世紀の隔たりの事実を軽視、ましてや無視してはならない。ハーバード大学で学んだ際、K・ステンダール教授が、この点を鋭く指摘なさり、50年近い年月がたった今でも、なお鮮やかに記憶に残ります。
各聖書箇所が、あの時、あの場で何を意味していたのか徹底的に読み取る研究方法の必要性・正当性の論証です。

しかし、マタイの福音書1章1節が明示するもう一つの事実は、さらに私たちにとり重要です。
アブラハムダビデの間は約千年、ダビデイエス・キリストの間も約千年、アブラハム以前を加えたらさらにです。聖書自体が、世紀の隔たりを内包しているのです。
しかも、例えばパウロは、アブラハムダビデを、世紀の隔たりを越えて、同じ船に乗った者同士のように受け止め、記述しています。天地の創造の初めから、キリストの再臨において成就する新天新地を目指す同じ一つの救済の歴史・同時代に生きる者として、固い絆で結ばれています。

今、私たちも世紀の隔たりに直面しながら聖書を読むと同時に、天地の創造の初めからキリストの再臨へ貫く同じ一つの救済の歴史・同時代に生きる者の絆で結ばれている事実を、深く自覚する必要があります。その時、聖書の記述に私たちの時・時間を読み取り、私たちの生活と生涯の中に聖書の時・時間が実感され、聖書記事と私たちの生活と生涯は生き生きと重なるのです。