書評再録 その4 斉藤孝志著、『まことの礼拝への招き』書評
書評再録 その4 斉藤孝志著、『まことの礼拝への招き』書評
本書は1980年発行の旧版から32年を経て、新書版として再版されたものです。著者斉藤孝志先生が生涯繰り返し続け来られた開拓伝道、その一つ厚木キリスト教会の修養会でなさった6回の連続説教が源泉で、まさに礼拝の現場から生み出された結実です。
その背景には、年月の経過に従いレビ記の重要性に対する著者の確信がますます深まった事実(170頁)があります。
さらに、レビ記と新約聖書の関係に見る聖書解釈に対する斉藤先生の的確な問題意識と明解な主張また忠実な実践を見ます。
第一に、聖書の部分と全体の関係で、
「聖書の部分に重点をおいて解釈するのでなくて、聖書の全体に重点をおいています」(35頁)。「全体を把握しなければ、部分は位置づけできない」(36頁)。
部分のみにとらわれ、全体の把握に欠ける傾向と著者が見る聖書解釈への反省と批判に立つ著作なのです。著者の批判精神はかなりのもので、責任を自覚した上で明言します。
「私たちの教団の歴史を見てまいりますと、どちらかと言いますと『きよめ』(聖化)という教理を他の教えから孤立させて、
それだけを強調する傾向があるように思うのです。・・・非常な危険性をはらんでいる」(90頁)と判断し、真の神を礼拝する恵みの一事を第一として、聖化も「聖書の大切なさまざまな教理」(91頁)の中で位置づけていく必要を強調なさいます。
そうです。「私は聖書を全体として教えていただけなかったということが私のきわめてゆがんだ半生のクリスチャン生涯の原因でした」(157頁)とさえ著者は言い切り、聖書を全体として
の主張のただならぬ根の深さを明かします。
このような経験を背景に斉藤先生が提示する、レビ記解釈の三要点(24‐27頁)の中心。それは、レビ記の時代的真理から区別された永遠普遍の真理を、新約聖書の光りで解釈、再解釈する必要。旧約聖書を新約聖書の光りで解釈し、聖書全体のメッセージに聴従すると明解です。
この方法論の実りの代表例に、レビ記23−25章「時の聖別」についての理解があります。
年月の聖別が25章の主題であるとして、
「神は、その心だけでない、私たちの生活も、いや、私たちの生きているこの歴史、この時もきよめられるという主張がそこに見られる」(148頁)、美しい読みです。共感をよび、ホーリネスの群れの先達・笹尾鉄三郎先生の聖歌に見る「日」の理解へとリンクします。聖書全体の深く豊かな味わいからのほとばしりの聖歌の数々と結びつきます。例えば聖歌292,722番。
しかし同時に本書に対して課題も意識します。
旧約聖書を新約聖書でという方法論の総論的ばかりでなく、
新約聖書の記者がレビ記の記述からどのように引用し解釈しているかの検討、いわば各論的な側面の徹底です。
勿論本書において、レビ記1章3節とローマ12章1節関係の検討などなされています(42頁)。この場合の理解が、そのままガラテャ2章20節について当てはまるかなどの課題です。
さらに旧約聖書の本来の意味を新約聖書記者がその真意を深く洞察している実例の把握を積み重ね、その実例に学びつつ、
旧約聖書と新約聖書の一貫性と進展性を複合的に見て行く必要です。さらに根本的には、旧約聖書、ユダヤ教、新約聖書の関係の見通しのです。網の目をより細かくする営みへ著者と共に進む必要を覚え、願いが起こります。
1970年日本福音主義神学会の発足直後から10数年、
斉藤先生とは様々な場面で共に労する機会を与えられました。
あれから40年、脳梗塞の再発にもかかわらず、斉藤先生がなお開拓伝道を継続、その只中から発信された本書を、同じく
脳梗塞発症後、喜びカタツムリと自認礼拝の生活、宣教の旅を続ける日々の中で味読でき感謝。