《 講 演 》「聖書をメガネに、童謡やいろはガルタを見れば」   その3

[4] 結び
私にとって聖書をメガネとして見る(読む)と言う時、二つの課題があります。
(1)聖書をメガネにするとは、自分の視力・認識に問題があると認めることです。自分の罪の問題に直面して初めて、聖書をメガネにする必要を覚えます。

(2)もう一つ、私も含めてキリスト者の聖書の読み方に問題があるのではないか。メガネのガラス―どんなにきれいな縁であっても―メガネのガラスを見て「ああ、このガラスは流線型だ」とか、「これがどうだ」「あれがどうだ」とかメガネばかりを見るのは、メガネに口があれば「私ばかりをそんなにジロジロ見ないでよ、私を通してものを見てちょうだい」と言うのではないか。
ところが私たちの聖書の読み方は、聖書の中にあれが書いてある、これが書いてあるとメガネだけを見ている。
聖書をメガネに見れば。「私の主人、本当に嫌い問題ありと思っていたけども、聖書をメガネに見れば、この人は母の胎内で、イエス・キリストの父なるお方が奇跡的な存在として造られ、組み立てられた。いやあ何と素晴らしい人と私は結婚したのだろう」と、このような言葉が出てこないはずがない。そのような読み方を聖書をメガネにして経験したい。
聖書をメガネにして、すべての物事を読まないところに私たちの読み方の問題があるのでは。聖書が本当に私たちに与えられている目的に従って読む必要があるのではないか。
童謡だけじゃない、次はいろはガルタを始めました。江戸いろはガルタだけではなく上方も。いろいろな人間の経験を凝縮しています。
たとえば「犬も歩けば棒に当たる」。犬は意識して棒に当たろうと思って歩いていたか、無意識で歩いていたのか。
ただ歩いていれば棒に当たる、これはすごいことだ。
犬も歩けば棒に当たる、
人間生きていれば恵みに当たる。
人間生きていれば何もしなくても、何もできなくても、生きていれば、主は恵みに満ちているんだから、犬が棒に当たるように、人は恵みに当たるのだ。   
私の主人について何の心配はいらない、私の主人が生きていてくれれば恵みに当たる。これはいろはガルタのはっきりしたメッセージ、これを私は沖縄の聖書神学校で犬棒神学、「犬も歩けば棒に当たる、人間生きれば恵みに当たる」、恵みの神学。本当に生きること、生かされること、これはそんじょそこらのどうでもいいことではない。

ただ「童謡」だけではなく、「いろはガルタ」だけでなくて、私の心、私の性格、 私の生涯、私の家族、私の教会。そして大きなことを言うようですが、歴史、さらに神さまが天と地を創られたばかりでなく、これが新天新地になる希望がはっきりしている、聖書をメガネに万物を視野に入れる。
「教会が大きくなった」とか、 「商売繁盛」y「家内安全」、もちろんそれ全部は意味があるのですけれども、そのためにだけ私たちは生かされているのではない。
それだけではなく、私の心、 私の子供の存在、私の家族・親族、私が生かされているこの同時代、私が知る限りの歴史、 私が知る限りの万物、それらの完成を本当に苦しみながら悩みながら望んで生きる。その忍耐と希望こそが、人間として生かされる人間である生き方ではないか。苦しみの中に喜びをもって、犬が歩き続けるように、私たちが生かされ担われて生きる。そして担う者として生きていく、そういう生き方、死に方を聖書から私たちは与えられている。

どんな小さなことも聖書の視点では小さすぎることはない。詩篇119編105節に「神さまのみことばは私の足のともしび」とあります。全部のことは分からなくとも、神さまが私たちを愛のほとばしりとして創造してくださったと確かに聖書に書いてある、このともしびだけで今日生きていけば。明日は明日、明後日は明後日、一歩一歩、そのように今日を聖書をメガネに受けとめる。
2014年4月1日からユーチューブの発信のタイトルは、「聖書をメガネに今日を見る」です。まずこまめに3回シリーズで、「過去」「現在」「未来」それぞれ3日間。聖書は、足のともしびと同時に道の光です。

私たちが聖書をメガネにして生きる時、どんな小さなことも小さすぎることはない。しかしどんな大きなことも大きすぎることはない。そう言った意味で、「新天新地、万物の完成、そのために悩み苦しむ、完成の為に悩む」。
その悩みに耐えていくために、聖霊御自身がお一人お一人に与えられている。一人一人の身体に苦しみ、痛み、衰えがある。身体が苦しめば、宇宙全体が完成に至る悩みを我が悩みとする、その手立てとなるのです。
そう言った意味で、共に「聖書をメガネに今日を生きる」、「聖書をメガネに宇宙の完成を見る」。そのことを月曜聖研の一人一人の目標とする。
また月曜聖研に行くとか行かないとかにかかわらずに、人間であることの喜びとして聖書を与えられている。聖書をメガネにすべてのことを見る喜びが、一人一人の中で実現されるように一言お祈りいたします。

祈り
父なる神さま、聖書を私どものような者が読むことを許されている驚くべき事実を感謝します。
今日、「聖書をメガネに」、私どもの日々のどんな小さなことも、どんな大きなことも見る道について考えて来ました。
私たちは見ること、認識することにおいて、歪みを持つ者です。その歪みを認める力をお与えください。そして歪みを主が耐えてくださっている恵みの事実を覚えて、主が与えてくださった恵みの手段である聖書のメガネを通して、すべてのことを喜びに満たされて、「あることはある、ないことはない」とはっきりと識別できますように。自らの分をわきまえる識別力を私どもに与え、分を果たすようお導きください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン