『丸太の笑いから喜びカタツムリの歩みへ』  その2

[2]脳梗塞ビフォー
 丸太の笑いは、脳梗塞前の生活を回顧すると、脳梗塞ビフォ−・アフタ−を際立たせる
しるしです。
 1986年4月東京青梅から沖縄に移住して数年後私は躁鬱を発症、その中で首里福音教会牧師と沖縄聖書神学校教師の働き、また執筆活動を神の恵みに支えられ続けていました。
 ところが私の躁鬱の状態がかなり重くなった頃、東京から沖縄に移住なさた精神科医中嶋聡みどりご夫妻が、当時八王子キリスト教会牧師であった荒井先生の紹介で首里福音教会に出席するようになられたのです。
 私たち夫婦は中嶋医師と個人的に面談し、先生が勤務する病院で診察を受ける決心をしました。しかし実際には心理的な壁を君代の支えでやっとの思いで乗り越えて、診察を受けたのです。こうして中嶋兄は、心から信頼する私の主治医に。

 その頃、私が直面した課題は、ほぼ定まったパタ−ンを取っていました。
普通の状態の生活の中で無理や多忙を苦にしない気分の高まりが続き疲労が蓄積しきる時期に、ふとした切っ掛けで、なにかの事柄について罪意識を持ち始めるとその原因となったそれ以前の過去のことを思い出して、さらにより強い罪意識を持つ。そのようにして青年時代、少年時代、ついには子供時代へと連鎖反応のように原因結果・因果応報の縛りが自分の存在そのものまで迫るのです。
 旧約聖書に登場するヨナのことば、
「私は生きているより死んだほうがましですから。」(ヨナ4章3、9節)や、
さらにヨブの生まれた日についてのことば、
「なぜ、私は、胎から出たとき、
  死ななかったのか。
  なぜ、私は、生まれ出たとき、
  息絶えなかったのか。」にさえ行き着くほどでした。
そんな状態が続く中、中嶋兄の勤務する病院に数年断続的に通っていました。

 やがて中嶋兄と私の関係に一つの節目が訪れました。
 なかまクリニックを中嶋兄が開院することになったのです。その出発にあたって、その後私たちの心に残り続ける、ことばのやり取りをしました。
それは、ある自ら命を絶った青年の納骨式のために、首里福音教会の教会墓地の前に集まっていた際のことでした。
「なかまクリニック、そこで中嶋先生は先生の牧会をなさいます。
 私は、その牧場の羊の一頭・一人であることを、誇りに思っています。」と申し上げたのです。このことばは、ことのほか、新しい出発をなさった中嶋兄にとり励ましになったそうです。私も、以前より定期的に通院するようになりました。

 もう一つの節目は、二人の著書をめぐるものです。
 2007年、中嶋兄は、『ブルマ―はなぜ消えたのか』(春風社)と、ちょっと風変わりな題名の本を出版したのです。
その本の「おわりに」と題する文において、中嶋兄は記しています。
「・・・関西学院大学社会学部教授・宮原浩二郎氏には、社会学の立場から諸々の点についてご教示いただいた。またとくに第四章「「性同一性障害」をめぐって」の執筆にあたっては、首里福音教会名誉牧師・宮村武夫氏より貴重なご教示をいただいた。両氏に深く感謝する。」
 宮村が何を教示したか、上記の文の直前で中嶋兄は示唆しています。
「・・・また『性同一性障害』は、聖書的立場、つまり聖書を誤りのない規範と認める立場から論述している。これはクリスチャン以外の人には共有されない立場だと思うが、この立場を含めての主張が私の論旨なので、それを共有しない方にはその立場を批判的に読んでいただければいいと考えた」とあります。同書の書評を、地元の新聞・琉球新報に載せて頂きました。
 そうです。「聖書的立場、つまり聖書を誤りのない規範と認める立場」こそ、当時首里福音教会で、毎週の主日礼拝の宣教を中心に宮村が中嶋兄に伝達し、中嶋兄がしっかりと受け止めた私たちに共通の恵みの基盤です。
 それは、創造者の説明書である聖書を眼鏡(めがね)として、創造された万物、当然人間・私を直視するのです。沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む道です。

 また私の著書・『愛の業としての説教』(2009、ヨベル)の帯に書いた推薦文で、私なりの理解と主張の要点を中嶋聡兄は、以下のように的確に書いてくださいました。
「宮村先生は首里福音教会牧師時代、私たち教会員に、『持ち場立場でのそれぞれの活動が牧会である』と言われました。みことばに堅く立ち、それぞれの現場を大切にし、現実現場に即してものを考えようとする姿勢です。
 ご自身の持ち場・沖縄を人一倍愛しつつ、曖昧な妥協を嫌い、先入観にとらわれずに社会や歴史を判断する強さをお持ちです。そんな先生の著作集に心から期待しています。」
 中嶋兄は、なかまクリニック院長で私の主治医。また私が牧師であった首里福音教会の教会員であり役員。何よりも神の御前における、人間と人間の20年以上にわたる交流を重ねてきた「なかま」です。
その中嶋精神科医師が、あの「ウフフ、ウフフ」以降、それまで服用していた欝のための薬を用いる必要がないと診断、躁のためのみを服用するようになり、今日に至っているのです。