「教会における子供の立場」『礼拝の生活』再考その129

1973年5月13日
『礼拝の生活』129

(巻頭言)「教会における子供の立場」
 
今年青梅キリスト教会の会員の家庭また私たちと深い交わりを持つキリスト者の家庭で、出産が続き、とても感謝です。
毎月第一主日に教育の課題を聖書から根本的に学びつつあるのは、こうした私たちの現状から見ても、必要欠くべからざることと確信します。
 
子供の誕生は、それぞれの家庭にとって喜びであり、慰めです。
アブラハムにとってのイサクのように、ともに神の恵みの契約にあずかる子供の誕生は、まさに神の賜物以外の何ものでもありません。神のご真実を信頼する神の民にとって、神の約束は絶対です。
そして神の約束は、単に個人的であるばかりでなく、恵みの系図という広がりを持つのです。子供の誕生を単に自然なこととしてばかりでなく、驚くべき神の恵みの事実として私たちは深く感謝するのです。各家庭は、恵みの子供を神のみことばに基づいて正しく教育する大きな責任を与えられています。
 
さらに神の家族である教会全体にとっても、子供の誕生は最大の祝福です。彼らは、ともに恵みの約束にあずかる者として、教会の中でまさに正しい位置を与えられなければなりません。契約の子としての立場をはっきりと認められ、彼らに対する教会全体の責任が自覚される必要があります。神の恵みの契約にあずかる者として、彼らはみことばと祈りの支えの中で成長すべきです。教会全体は、子供たちが神の恵みの中に成長し続け、はっきり信仰の告白へと導かれ、神の国の一員としてよき働きをなすために祈り続けるべき責任と特権を委ねられています。

☆二人の実子と二人の里子との1970年代以来今日までの歩み。
私の願うようにいかないことが少なくなかったのです。

そうしたとき、君代が私たちの両親の姿・実践をしばしば私に指摘してくれました。
私たちが、いわゆる献身者として、家を離れ、両親の期待や希望を考慮せず歩みを続ける中で、ひたすらに私たちを信頼し、経済的側面をはじめ支援し続けてくれた事実を。

 今、私たち二人の祈りは、単に現在の子供たちのためばかりでなく、二人が主のもとに召された後の彼らのためです。私たちの生と死における子供たちの位置。