東京都江東区大島7丁目出身の岩崎淳兄のあかし

東京都江東区大島7丁目出身の岩崎淳兄のあかし

☆本日聖望キリスト教会の主日礼拝において、江東区大島7丁目出身の岩崎淳兄
が洗礼を受けます。
 そうです。大島3丁目でも、8丁目でもなく、大島7丁目です。
以下、岩崎淳兄のあかしです。今後の岩崎ご夫妻の歩みのためお祈り頂ければ、嬉しいです。

あ か し
2013 年3 月24 日
岩 崎 淳

[Ⅰ]「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)。この聖句は、昨年、宮村武夫先との一風変わった洗礼準備会が始まった時の最初の引用句です。「一風変わった」とは、洗礼を受けることが前提ではなかったからです。この時、既に私は、私なりに神様を信じていましたが「神様のことをもっと理解しなければ、クリスチャンにはなれない」と思っていました。
ところが、今までに何回も聞いて知っていた、この「初めに、神が天と地を創造した。」という聖句を改めて聞いた瞬間に「神様のことは全て理解できるはずがない。それよりも、もっと神様を頼り、神様にゆだねればいい。それでいいのだ!」と素直に感じることができました。
なぜ、こんなに素直に受け入れることができたのか?それは、正に神様がこの瞬間のために全てを備えてくださったからです。

[Ⅱ]私は、東京の下町、大島というところに生まれました。子供の頃から両親に「他人様に迷惑を掛けてはいけない」と教え込まれ育ちました。また、私の良く考えずに、勢いで「自分がどうにかしてみせる!」とシャシャリ出てしまう性格は、まさに下町という育った環境が影響していると思います。
おせっかいな人が多く、また昼間から酔っ払いがいるような環境で育った私は、下町から見るとオシャレでハイカラなミッション系の明治学院高校に入学し、そこでキリスト教とはじめて向き合う機会を得ました。毎週礼拝があり、聖書の授業もありましたが、全く興味がなく、高校3 年間で覚えたのは礼拝の時間によく歌わされた讃美歌の539 番だけ。
そして「4 年間遊びたい!」との思いで明治学院大学に進学。勉強は全くするつもりがありませんでしたが、唯一真剣に受けた講義が大学1 年の時の「哲学」です。この「哲学」の講義の中で先生が「私は、キリスト教は完璧な宗教だと思います。でもクリスチャンではありません。理由はただ一つ。この乱れた時代に、どうしてイエスが再び現れないのか?もう2000 年も現れない・・・それが、私がキリスト教を信じられない理由です」と言いました。私自身も社会が乱れていると感じていたので「2000 年もイエスが現れないのは、やっぱり神様はいないからだ」と思うようになりました。
高校、大学の7年間、神様に触れる機会がたくさんあったにもかかわらず、私は、全く神様に興味がない・・いやむしろ、その存在を否定するようになってしまいました。

社会人になり、24、5歳の頃、働いていた会社の先輩4人と会社を作りました。しかし数年後、見事に失敗。下請け業者さんへの支払いができなくなり倒産。私は「下請け業者さんに迷惑を掛けてはいけない」「自分がどうにかしてみせる!」との想いから独立。前社長の借金と下請け業者さんへの未払金を、私が引き受けました。この時点で数千万円の借金を負うことになりました。
冷静に考えれば、社長ではなかった私が何もわざわざ借金を負う必要は無かったのですが、当時私は「何の根拠も無い自信」に満ちていました。幸い、その後は売上も順調、借金返済も順調に進みました。
仕事が順調に進み、私が「お金はいくらでも稼げる」と錯覚するようになっていたころ、信頼する下請け業者さんの知り合いが、私の取引先である一部上場企業の商品をだまし盗る詐欺事件に巻き込まれます。「取引先の担当者に迷惑を掛けてはいけない」「自分がどうにかしてみせる!」との思いから、出来るだけ早く解決するために、私はある右翼に頼み、解決してもらいました。この事件を通して、私は、その右翼の思想、正義感、そして何よりも代償を求めない姿に憧れ、その後、私とその右翼は接近していきました。
私が、この右翼の本性に気づいたのは、詐欺事件後一年程たってからでした。「あの事件のことが、マスコミに漏れたら、あの企業の担当者はどうなるかなぁ」とか「あの事件のことを書いた手紙を、右翼の名前で、岩崎君の取引先に送ったらどうなるかなぁ」とか「あの事件は、全て解決したわけではない」など。遠まわしにお金を要求するようになりました。
当時、私は少ないながらも社員を抱えていました。社員の生活、そして自分自身の生活を守るためには、その右翼の要求に応えていくしかありませんでした。要求はエスカレートしていきましたが仕事は順調だったので「お金は稼げばいい」と思っていました。
しかし、やがて私はこの右翼を通して、悪魔の存在を信じるようになりました。私は、その右翼が巧みな話術とテクニックを使って、人の弱みに付け込み、普通の人を悪者におとしめていく過程。自作自演の事件を仕立てて、企業や弱い者を追い詰めていく過程を目のあたりにしました。
普通の人が闇に引きずり込まれていく光景。それは私のそれまでの経験や常識、想像をはるかに超え、私の頭と心は混乱しました。「世の中には、こんなにも恐ろしい人間がいるのか!」と恐怖を感じました。
その右翼は、まるで自分が神様から特別扱いされている、あるいは自分は神だ!と言わんばかりに「岩崎は、神様を信じない人間だ。神様を恐れない人間だ」と私によく言いました。その言葉を聞くたびに、私は「神様なんていない。いるのは悪魔だけだ」と強く思うようになっていきました。
私は、追い詰められた人間の悩む姿、苦しむ姿、そして人間の弱さと裏切り。法律や警察の盲点。汚れた裏の社会。そして普通の社会に溶け込んだ羊の皮を被った悪魔たちをたくさん見ることになりました。私は時間を掛けてゆっくりゆっくり深い闇、抜け出すことができない闇に引きずりこまれていきました。
それでも私は「他人様に迷惑を掛けない」という親の教え、「自分がどうにかしてみせる!」という下町生まれの性格から、「この右翼をどうにかしなければならない」「この右翼から普通の人を守らなければならない」と思いました。このように言うと格好よく聞こえますが、実際には、社員や自分を犠牲にできない弱さがあり、その右翼から逃げたくても逃げられない状況でした。私はただただ「目の前で人の不幸を見たくない!」と必死でした。
「この右翼はお金が欲しいから、悪いことを繰り返している」「お金で、人を救えるならお金をあげよう!」「お金でこの右翼が改心するならお金をあげよう!」「お金で自分の仕事が守れるなら、お金をあげよう」「お金で自分の魂が守れるなら、お金をあげよう」「お金は稼げばいい」。
結局、「私は、悪魔の仲間ではない!」とお金で自分自身を正当化しようとしていました。・・・しかし、悪魔は強く、やがて自分の中から、どんどん感情が消えてゆき、そして「この右翼に、お金だけではなく、私の魂や人生も奪われるかもしれない。」そう感じはじめました。

[Ⅲ]ところが、そのような中で「結婚はないだろうなぁ」と思っていたオクサナと結婚することになり、私に転機が訪れます。
結婚し、オクサナが来日した翌月、神様はオクサナに奇跡を起こしました。それは毎年見に行っている多摩川の花火大会に向かう電車の中で、オクサナは偶然昔の知り合いの女性Lさんに会いました。
オクサナの話によると、Lさんは昔、手のつけられないほどの乱暴者だったそうです。しかし、その電車の中で会った彼女は、アメリカ人と結婚し、クリスチャンになり、そして別人のように生まれ変わっていました。私はLさんの昔の姿は知りませんが、その時、オクサナは体をぶるぶる震わせていたので、その変わりようは相当なものだとすぐ理解できました。
日本にいるはずのない人との再会。しかも、田園都市線の花火大会で混雑する電車の中で。あの日、あの時間、あの車両・・・これこそ神様の奇跡です。この一件で、私は「これは偶然にしては、出来すぎている」と、初めて「神様のような存在」を意識することができました。
オクサナはこの奇跡によって確実に神様に導かれていきます。その後すぐに、オクサナは志保子さんの旦那さんであるケンさんと日本語学校で同級生になります。この縁で、それから2 年ほど経って、オクサナは大竹さん宅で行われる礼拝に通うようになりました。そして私も、たまに礼拝に参加するようになりました。
大竹さん宅の礼拝で、私の「キリスト教」のイメージは大きく変わりました。いつも玄関から小林武夫さんがお祈りする姿が見えました。「この人たち、他人のために本当に神様に祈ってる・・・マジかよ。」私は、神頼みは自分のためにするものだと思っていました。しかし大竹さん宅で行われていたお祈りは、とても神聖なもの、とても尊いものに感じました。
さらに、初めて福澤満雄先生の話を聞いた時、イエス様が十字架に架かっている映像が私の頭に浮かびました。それまで「イエス様が十字架に掛けられたのは2000 年も昔の話だと思っていましたが、たった2000 年前の出来事である」ことに気づかされました。そして大学1 年の哲学の講義で「イエス様が2000 年もの間、現れないのはおかしい」と思ったことが「ああ、まだ2000 年しかたっていない」と、とても身近に、リアルに感じることができました。同時に「作り話だと思っていたイエス様の存在は現実だった。」と確信に変わりました。
こうして2007 年にオクサナが洗礼を受け、その後も私はオクサナの身近におこる神様の奇跡を見ることになりました。しかし、正直「オクサナは、神様に選ばれているけれど、私は選ばれていない。」と思っていました。
このような中、3 年ほど前にメインの取引先ともめ、突然取引中止になりました。お陰で、私の会社は事実上破綻。長年私を支えてくれた社員にも会社をやめてもらわざるをえなくなりました。しかしこの時「今なら、あの右翼と縁を切れる!」と思い、すぐにそのチャンスが訪れました。金の切れ目が縁の切れ目だったのでしょう。ちょっとゴタゴタしましたが、長年私を苦しめてきた右翼との縁をきっぱり切ることができました。
その後、借金の返済や下請け業者さんへの支払いができなくなり、毎日毎日金融機関や下請け業者さんのところに行って、事情を説明し「今は、お金がない。何時返せるか分からないけれど、必ず返します」と頭を下げて回りました。本当に笑ってしまうほどお金がなくなりました。結局は自宅を含め、私財を処分しましたが、それでも借金や下請け業者さんへの支払いを残したまま。やっとの思いで市川に住める場所を見つけました。今思えば、「神様に導かれて、市川に越してきた」と断言できます。

[Ⅳ]自分の会社が事実上破綻することで、「自分がどうにかしてみせる!」「他人様に迷
を掛けない」という私の自信は、あっという間に全てが真っ赤なウソになりました。社員の生活を守ることができない、また下請業者さんへの支払いができない・・・みじめで、本当に情けない、本当に申し訳ない結果になりました。人生の半ばで、人に大きな大きな大迷惑を掛けてしまいました。
借金を苦に自殺する零細企業のとてもまじめな社長が多い中、私は、この時点で神様に救われていたようです。大竹さん宅の礼拝を通して「神様が、私たち人間に耐えられない苦難を与えるはずがない!」と確信していましたし、何があっても「恐れることなない!」と自分自身を励ますことができました。他人から見たら「本当は隠し財産があるんじゃないのか?」とか「完全に開き直っている!」と写っているに違いありません。
しかし、私は、以前のような「何の根拠もない自信」ではなく、「神様がいる!という自信」によって、「どうにかする!」ではなく「どうにかなる!」と確信的な希望を持つことができました。
お金はない、時間はある・・・確かにオクサナには大きな大きな、大きな負担をかけ、そして大きな大きな、大きな不安を与えているのですが、教会に行く時間もある。本を読む時間もある。教会に行けば「自分の苦労はハナクソみたいなもの」と自然に勇気をもらえました。毎月第一日曜日の聖餐式は、パンとぶどう酒をいただけない寂しさを感じるので、行きたくないなぁ・・・と思っても、藤崎信先生の笑顔を見ると元気がもらえました。私は自然に神様を信じるようになりました。
そして、昨年の宮村武夫先生との一風変わった洗礼準備会の初日。「初めに、神が天と地を創造した。」
(創世記1:1)の聖句の「初めに神が」がすーっと心の奥に入ってきました。
既に私は「神様がいるから、どうにかなる」という確信的な希望を持っていたものの、やはり「自分がやる、責任をもってやる!必ずできる!」「自分が!自分が!」と、頑固に通そうとする自分自身に気がつきました。「 “自分が” ではない!この世は全て “神様が” しかも ”初めから”神様の御業が働いている。 ”自分が“ ではなく、もっと神様を頼って、神様にゆだねていいのだ。」・・・不思議と気持ちが楽になりました。
とは言え、私の中で、洗礼を受けるには、2つの障害がありました。ひとつは残っている借金のこと。「人に迷惑をかけたままで洗礼を受けてもいいのか?」神様は私を赦してくれるかもしれないけれど、借金を完済するまで絶対に私は赦されないし、私が私自身を赦せません。
そしてもうひとつは「あの右翼を赦せない」こと。「あの右翼に奪われたものを、奪い返せばいい!」と悪魔が私にささやき、具体的なプランがどんどん浮かんでくるのです。 その度に「自分は、あの右翼と同じ。悪魔になっている。こんな自分はクリスチャンになれない。」と感じていました。
しかし、私は、宮村武夫先生を通して、ようやく神様に「借金を返すために、どうぞ私を助けてください!」と素直に、そして「あの右翼を救ってください!」と祈ることができるようになりました。
不思議なことに、お祈りを通して、私は何もかも失ってしまったはずなのに、大切なものは何も失っていないこと。むしろ心は平安で、本当に大切なものは何かに気づくことができました。
私の平安の源は「神様がいつもそばにいてくださる」確信。一番大切なものは、神様が私に与えてくださったオクサナです。
オクサナにおこったような劇的な奇跡は「私にはおこらない」「私は選ばれていない」・・・・ずっとそう思っていました。
しかし、既に神様は私に劇的な奇跡をおこしていました。それは世界にいる70 億人の中で「オクサナと出会ったこと」です。これこそ私におこった最高の神様の奇跡であるこ
とに、今さらながら、やっと、やっと気がつきました。
「ちょっと神様!荒っぽいんじゃない?!」と言いたいけれど、今ほど幸福で平安な気持ちを実感したことはありません。心から神様に、そして宮村武夫先生、福澤満雄先生、藤崎信先生、大竹ご夫妻、神様のことをいろいろ教えてくれた田嶋ご夫妻、私に聖書を与えてくれた西野栄見子さん、さらに私を温かく迎えいれてくれた聖望キリスト教会の皆さん、そして両親、そしてオクサナに感謝しています。