『見える人間、見えない神』

『見える人間、見えない神』
ヘブル13章7、8節,
                
2012年11月18日
東所沢恵み教会

[1]序
(1)ヘブル人の手紙の中でも最も大切な一つ13章8節、「いつでも,同じ」主イエス・キリストを仰ぎ望み、私たちが置かれているそれぞれの場で、主の恵みに生かされる歩みが明示をしています。
 
(2)ここでも前後関係を注意すべきです。
5節では、申命記31章6節、「わたしは決してあなたを離れずまた,あなたを捨てない」との力強い約束を引用しています。
 6節では詩篇118篇6節を引用し、「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう」と、信仰告白をなしています。

 1〜4節では、
「 兄弟愛をいつも持っていなさい。
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。
牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。
結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。」と、
 力強い神の約束に基づく確信、信頼の根から広がる生活を教えています。ヘブル人の手紙の著者は、生活の中で実践すべき事柄を一つ一つ具体的に示し、実際的な教えをなしてきました。
 
 しかし7節以下では、ヘブル人への手紙の著者は、今や、単に教えるだけではないのです。
多くの場合,教えは、教えだけでは力がないのです。
著者は、7節では、その生涯において身をもって教えを実践していた指導者たちの模範に言及しています。過去の時代の証人について11章でなしていると同じように。
 
[2]「彼らの生活の結末をよく見て」(7節
 教えを実践した人を見よ。
11章の場合のように有名であるが背景の違う聖書の人物ではなく、身近な指導者たち。
顔も生活も思い出せる人々についてです。
では彼らのどんな点を特に見よと言うのでしょうか。彼らの生活です。指導者たちの第一の務めは、みことばをはっきり伝えることです。みことばを正しく、深く、豊かに人々がわかるように伝達することです。
しかしそれだけで事足りるのではない。聖書に見る神の約束に寄り頼む信仰は、必ず信仰の生活となって現れるものです。生活に現れない信仰など考えられないのです
みことばを信じる信仰。信じるなら生活に現れるのです。
しかも著者は、「生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」(7節)と明言します。
ここで「生活」と訳していることばは、Ⅰペテロ1章15節で、その意味をはっきり示しながら使われています。
 「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいてきよくなりなさい」(Ⅰペテロ1:15)。
「あらゆる行ないにおいてきよくなりなさい」と勧めている、「行ない」と訳していることばは、ヘブル12章7節で「生活」と訳していることばと同じです。
キリスト者・教会の生活の大原則です。人して生まれ生きる生涯は、唯一の生ける真の神の実在を天地に向かい示すことです。これが人間の使命です。私たちは小なりとは言えども、この使命を委ねられています。この目標を見失えば,人生は空しいものです。
 では「生活・行い」とは、実際にどのようなことなのでしょうか。
Ⅰペテロ2章12節を注意したいのです。
「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、なにかのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります」。「ふるまい」と訳していることばがやはり同じです.さらにⅠペテロ3章1節。・
 「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばにしたがわない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです」。
 そうです、基本法則は,神のことば→信仰・信仰生活.

[3]イエス・キリスト 
 7節から8節への移行。7節と8節の結び付きはどのようなものでしょうか。
(1)受信人たちが最初に世話になった指導者たちは、今はこの地上にはいないのです。良い模範を残し自分の与えられた行程を走り抜いて召されていきました。今はアベルと共に語っているのです。しかし彼らは受信人たちが直面しているこの時の教会の課題について直接の助けを与えることはできないのです。時の流れの現実の中で、どのような指導者も移り過ぎないわけにはいかないのです。

(2)このような人間の指導者に比べて、8節では常に変わらない主イエス・キリストの姿が際立ちます。時の流れの移り変わりの中でも、「いつまでも、同じ」である主イエス・キリスト
 
 7節に見る「神のみことば」とは、8節の「イエス・キリスト」のことです。
指導者たちは、変わることのないイエス・キリストを宣べ伝えたのです。

 指導者たちは、確かに過ぎ去ります。しかし彼らの宣べ伝えた主イエス・キリストは、過ぎ去らないのです。そして実は、変わることのない主イエス・キリストご自身が、過ぎ去り行く指導者を通して語られたのです。指導者たちは、主イエス・キリストを手提げに入れて持ち来ったのではなく、主イエス・キリストご自身が彼らを用いて宣教の働きを進められたのです。主イエス・キリストは、昨日(過去の日々)、指導者たちの生活を支え彼らと共に歩んでくださいました。
今、指導者たちは天に召されています。
しかし主イエス・キリストご自身は、今も昨日と同じく人々と共にいて先頭を進み,しんがりを守ってくださいます.人々の状態は変わり、教会は揺さぶられるようなことがあっても、主イエス・キリストご自身は変わることなく、いつも同じ。
 手紙の受信人たちが迫害を受けていたとき共にいてくださった主イエス・キリストは、指導者がさり、教会が風化作用にさらされるような今も、大祭司として同じ執り成しの働きを進めていてくださるのです。
ヘブル7章25節をお読みします。
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
 人々の主なる神に対する態度が、たとえ変わるようなことがあっても、主イエス・キリストが人々に対して持たれる関係は変わらないのです。10章23、24節参照。
「 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」

8節の「同じです」とは、いつも生きておられるということです。
 私たちが主日ごとに主日礼拝の席に座っていること自体、主イエス・キリストが私たちの間に生きておられる事実を世に向かって宣言しています。私たちは私たちの生き方をもって世に証するのです。主イエス・キリストは生きておられる、これが主日礼拝の心です。私たちは黙って主日礼拝の座に座っているように見えます。しかし世に向かって叫んでいるのです。「イエス・キリストは,きのうもきょうも,いつまでも,同じです.」(8節).
 一切の権威を持つお方が私たちと共におられるのです。
マタイ28章20節をお読みします。
「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 また私たち各個人の内にいます主イエス・キリストを覚えるのです。
ガラテヤ2章20節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 さらに私たちの周囲に私たちの助けを必要としている人々と共にいます主イエス・キリスト、マタイ25章35節以下。
 
へブル1節から6節の勧めは、ただこのお方からの支えによってのみ聞き従い得るのです。日常生活のさなかに主イエスを覚え生かされる幸い。

[4]集中と展開
(1)7節が描く、目に見える人間を覚えることを通して。・教会の歴史を大切に。
 

(2)8節の眼に見えない神の恵み・生けるキリストを、生き生きと生活の中で経験する。