『備え、惜しまないでいられない神』

2012年11月25日
聖望キリスト教会 主日礼拝

ヨナ書4章1−11節(2) 
『備え、惜しまないでいられない神』

御父、御子、御霊、生ける三位一体なる神の御名を讃美します。
[1]序
(1)4月以来、月に一度の割合で読み進めてきたヨナ書の味わい、今朝が最後になります。ヨナ書の各章を2回の割合で、味わう中で新しく教えられた恵みを含めて、私にとってもさらにヨナ書が一段と身近になりました。今後の皆様の信仰生活においてヨナ書を繰り返し味わう際に、今回の連続説教が役立つよう願います。

(2)10月は、4章の位置と内容に注意しながら4章全体の流れを見通しました。
今朝は、4章9−11節、特に9節と10節にみるヨナの姿と11節最後の含蓄ある言葉により浮かび上がる主なる神ご自身の御心との対比に焦点を合わせます。
なお12月23日には、4月以来ヨナ書をどのように語ってきたか、同時にどのように聞いてきたか自問しつつ、クリスマス伝道礼拝とも言うべき時を持ちたいのです。
 主のお許しがあれば、来年1月からは、Ⅰペテロに進みます。

[2]ヨナの姿 
 4月以来のヨナ書の味わいで、人間・ヨナにさらに一段と親しみを感じるようになってきました。今回は二つの関係からヨナの内面に触れます。
(1)とうごまをめぐるヨナ
①ヨナはとうごまを非常に喜ぶ(6節)。
 主なる神のニネベに対する態度に不満で、「【主】よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」(3節)とまで言っていたのに、とうごまが備えられると一転。

②とうごまのために、当然のことのように怒る(9節)。
 しかしとうごまが枯れてしまうと再び。
とうごまがあるかないか条件により喜んだり怒ったり左右されるヨナの姿。

③骨折らず、育てもしないとうごまを惜しむ。
 植物、動物(家畜、ペット)、他者特に子供のため骨折り、育てるのが人間・ヨナの本来的な使命。その使命からずれるてしまっているヨナ。

(2)「あなた」と、最後まで繰り返し呼ばれるヨナ
 ヨナは、単に人格を持たないとうごもとの、「わたし」と「それ」との関係ばかりでなく、自分を「あなた」と呼びかけてくれるお方と、「わたし」と「あなた」の人格的関係に生かされています。
①「あなたは当然のことのように怒るのか」(4節)

②「あなたは当然のことのように怒るのか」(4節)

③「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。」(10節)

[3]惜しまないでいられない神
(1)「わたし」
 11節文頭の「わたし」、強調法。さらに疑問形、「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。・・・」を用いて、[いや徹底的に惜しみ愛している]と共に、主なる神ご自身が惜しみ、愛されている事実を強調。

(2)「惜しむ」
動植物、自然、全世界に対する創造者の統治・愛。
「天地の創造者」への信仰の基盤。

(3)ニネベ、「そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」ヨナが掛け替えのない存在であるように、掛け替えのない個人の集団としての都市。
神とヨナの全人格的関係を通してニネベをそのように見る視点の確立。

[4]集中と展開
(1)集中
 ニネベ、ヨナ、ヨナ書(最初の、そして今の)読者に対する主なる神の惜しみ・愛の注ぎの波紋、その広がり。
①ニネベに向けてのことばは、誰よりもかヨナ自身において現実となっている恵みの事実。

②非常な困難な状況にあったに違いない最初の読者から、今の読者・私たち各自へ。私達の現実がどのようなものであったとしても、そこに向けて語られているかみのことばです。

2)展開
 11節に見る神の呼び掛けのことばは、締めくくり最後ではない。惜しまれ愛されるヨナ、そして私たちが、驚くべき神の愛に応答して、汗と涙を流しつつ、骨を折り、育てていく(4章10節)、一夜でなく、長く続く日々・生涯を生きていく新しく開かれた歩みへの新しい出発点が開かれているのです。終わりと同時に始まりでもあります。
 そうです。「私は生きているより死んだほうがましだ」(4章8節)との「死ぬほどの怒」(4章9節)・ニヒリズム虚無主義からの神のことばによる解き放ち・救いの道です。