光りと影『礼拝の生活』再考その122

1973年3月11日

『礼拝の生活』122号
 
(巻頭言)「心を新たに」 
 
4月から始まる1973年度の歩みを前に、3月4日役員選挙のために教会総会が開かれました。種々の理由で、出席者11名と委任6名という極少人数の集まりでした。
新しい年のはじめから教えられたように、今年度の歩みがいかに厳しいものであるかを痛感させられます。
しかし私たちは落胆したり恐れたりしないで、現状を正直に見つめながら、与えられている使命の重大さを悟り、主なる神に信頼しつつ歩みを続けたいのです。

私たちの信仰生活が飾りものでも習慣でもなく、まさに私たちにとって生死の課題であることを再確認します。3月4日の礼拝でともに読み味わったマタイの福音書28章16−20節を、各自の生活の場でもう一度深く味わいましょう。
主イエスは、あの11人の弟子たちに語られたように、私たちの小さな群にもはっきりと宣言なさいます。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らに命じなさい。見よ、わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
 
私たちの群の各自が、キリストの弟子として生きるかどうかが課題です。さらに私たちの群が宣教の教会として、キリストの弟子を生み出す教会であるかどうかが問われています。明確な信仰告白と献身の生活を決心する人々が、群に加えられ続けているかどうか。私たちの群が、聖書の内容を正しく、豊かに教え続ける群であるかどうか。群のひとりびとり聖書を個人的に読み続け、聖書を全体として信仰と生活の唯一の基準として生きているかどうか。そして世の終わりまで、いつも私たちとともにいますお方を、見上げ続けているかどうか。今わたしたちは、心を新たにされて問われている課題に、個人としても、全体としても答え続けるべきです。
 
私たちのあらゆる飾りが取り去られ、小さな群としての実体が明らかにされることは、主なる神が大いなるみ業を私たちを通してなさってくださるために是非必要なことです。この年度、あらゆる事柄は神ご自身の直接的な恵みとして、すべては主なる神ご自身の栄光に帰せられます。今も、主なる神が生きて働き給うことを、私たちの群を通して現わし給うように、私たちもまた与えられた立場にあって真剣な歩みをなすのです。

この思いで、1986年3月まで青梅キリスト教会で。

基本的に同じ思いで、1986年4月からそれまでの生活から離れて沖縄の首里福音教会を中心に、2006年3月まで20年間。

2006年4月、愛する首里福音教会を離れ、2009年12月脳梗塞に倒れる中で、喜びカタツムリの歩みの開始。

「先生の若さに直接付き合われてきた方々のご苦労も並ではなかったろう。君代夫人をはじめ、半径数メ−トルの近くで歩んでこられた皆さまに敬意を表さないわけにはいかない」(永田竹司、「宮村武夫・万年青年先生との対話の書」宮村武夫著作5『神から人へ・人から神へ』327頁)との、敬愛する永田先生のことばは、この40年の歩みの光りと影を正しく指摘しています。