生ける三位一体なるお方『礼拝の生活』再考その120
1973年2月18日
『礼拝の生活』120号
(巻頭言)「生ける神」
聖書の宣言する信仰の中心は、「生ける神」です。
たとえば、使徒パウロは、テサロニケ教会の人々が信仰を持つに至ったときのことを、
「あなたがたがどのように偶像から神に立ち帰って、生けるまことの神に仕えるようになり」(Ⅰテサロニケ1章9節)と述べています。生ける神こそ、あらゆる偶像と対決する聖書の神の特徴です。
偶像は、人々や家畜に運ばれ、彼らの荷物となり、重荷となります。
しかし、生ける神は、全く違います。
「わたしに聞け、
ヤコブの家と、イスラエルの家の
すべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、
わたしは背負う。
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ46章3、4節)と語られる神です。
実に、「日々、私たちのために重荷をになわれる主」(詩篇68篇19節)なるお方です。
生ける神は、天と地とその中にあるすべてのものを創造し給うたばかりでなく、今現にすべてのものを統治し導いておられます。
ですから、私たちは、いかなる場所で、いかなる状態にあっても、そこに生ける神の父としてのご配慮を確信できます。生ける神を私たちの父なる神と呼ぶ恵みに生ききるのです。
☆今、各地の教会の主日礼拝で宣教する際、最初のことばを、
「御父、御子、御霊、生ける三位一体なる神の御名を讃美します。」としています。
上記の40年前の文章からの一貫であり、進展です。
高校時代、万代恒雄先生が教えてくださいました。
「植物があっての植物学である、
人間がいるからこそ人類学がある。
人類学が人間を造り、
植物学が植物を生み出したのではない。」
そうです。
御父、御子、御霊、生ける三位一体なるお方あっての三位一体論です。
三位一体論が、御父、御子、御霊、生ける三位一体なるお方信仰を生み出すのではないのです。
一本のゆりの花に対する現実感、いや人格的存在である一人の隣人に接する以上の現実感に満たされ、
「御父、御子、御霊、生ける三位一体なる神の御名を讃美します」と語り続けたいのです。