聖霊ご自身の働きと記憶と記録『礼拝の生活』再考その119

1973年2月11日
『礼拝の生活』119号
 
(巻頭言)「記録の尊さ―今日の歩みのために―」 
 最近、教会の幾人かの方々が記録を取っておられる姿が目立ちます。
たとえば家庭集会の讃美歌番号、聖書箇所や学んだ内容の要約、祈りの課題を記録している家庭。各集会の聖書の学びを記録している方。また個人的な聖書の学びで教えられたことを書きつけている方。それぞれの方法で記録を取っておられます。
これは、信仰の歩みにとって、とても大切なことです。

 唯一の生ける真の神は、全能なるお方です。ですからすべてのことを一度に人間に示すことは可能です。
しかし事実神がよしとして選ばれた方法は、聖書の成立を通して語られる方法です。つまり長い、長いイスラエルの民の歩みを通して(ヘブル1章1節)、神はご自身のみむねを啓示されました。
またいつでもどこでも確実に神の民が知ることができるように、記録された聖書を通して、神は語られるのです。聖書が書かれるための年月。その長い年月を通してイスラエルを導かれた主なる神のご真実に全く圧倒されます。
 
聖書を通して聞き従う私たちは、神が聖書を通して語り給う霊的原則に従って生きるのです。神は、すべてのことを一度に明らかにすることは可能です。しかし事実、神は私たちの信仰の歩みを通して、長い期間の間に、どうしても否定できない確かさで迫ってきます。ひとつびとつ恵みを記録しながら信仰の歩みを続けるとき、私たちは主なる神の確かな恵みのみ手を確信できます。そして、今日、私が感じると感じないとにかかわらず、確かに、本当に確かに、主なる神が導いて下さると確信できます。

☆1970年以来、三つの神学教育機関で、聖書解釈学を中心に伝えてきたことの中核は、全能の神が、実際に聖書を成り立ち成立なさった方法と聖書を私たちが読み従い生かされる方法は、深く重なり合う、つまり一度にすべてではない。
  この一度にすべてではない神の方法を大切に、個人としても教会としても歩みを継続して行こうとの呼び掛けです。
 この歩みの継続に当たり、聖霊ご自身の働きと私たちの記憶と記録が深く結び合う。
それで先達方の歩みを私たちのそれともしたいのです。
「わたしは進歩しつつ書き
 書きつつ進歩する人の一人であることを告白する
。」