『からだのよみがえり』『使徒信条』再考②

聖望キリスト教会・宇都宮キリスト集会合同修養会
      日時 2012年9月17日(月)午前
      場所 日光 オリーブの里

使徒信条』再考②
『からだのよみがえり』
ロ−マ8章18−25節

[1]序
(1)使徒信条第三項,「 我は聖霊を信ず・・・」
 アッセンブリーの・ペンテコステ派の教会を通してキリスト信仰に導かれ、50数年聖書信仰に立っての歩み、徹底した聖霊信仰・徹底した聖書信仰。その上で、
A.聖なる公同の教会、聖徒の交わりを→教会

B罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず→キリスト者各自
聖霊ご自身のキリストのからだである教会の個と全体に徹する御業を信じ告白します。

(2)「からだのよみがえり」の重要性
 「罪のゆるし」、「とこしえの命」とキリスト信仰の重要な二つの間に挟まれて告白されており、その重要性を示しています。
 しかし私たちの実際生活では、「罪のゆるし」から「とこしえの命」へ直接結び、「からだのよみがえり」は、ほとんど意識されていないのが実体では。

[2]からだ・私、リハビリの経験を通して
以下の文章、ブログ「喜びカタツムリの歩み」を通して。
単にキリスト者・教会を対称でなく、人間であれば誰でも。確かにそのように普遍性を持つことばであるかどうか問われるが。

今、キリスト者として生きる生活・生涯とリハビリの経験との間にある類似点に気付き、キリスト者、つまり本来の人間として生かされる喜び、その忍耐と希望を、相手が人間であるなら誰に対しても、リハビリの用語と実体を媒介として伝えたいと願い、小さな実践をなしています。

 しかしもう一つの側面があります。
それは、キリスト者として生きる歩みとリハビリとの間には類似点だけでなく、決定的な区別がある事実です。
 それは、聖書に一貫する終末の希望・終末論です

死を越えたキリストの復活の事実に基づく絶対的な完成・成就への希望です。
 私の知る限り、リハビリの現場では、死の事実はタブーです。
リハビリを施す者と受ける者のいずれかが死ねば、リハビリは成り立たないのです。
死の事実が厳然とあるにもかかわらず、あたかもないかのごとくにしてリハビリは営まれている。
これに対して、死の事実を直視しつつ、なおからだの復活の恵みの事実に励まされて、リハビリの営みに励む。リハビリの治療をなす者も受ける者も共に。この道をどのように伝え実を結ぶか、今直面している私の課題、嬉しい課題です、感謝。

[3]「からだのよみがえり」、ロ−マ8章18−25節
A.万物の完成
主の祈り
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」
  
19節、「被造物も」
20節、「被造物が」
21節、「被造物自体も」
22節、「被造物全体が」

★被造物全体への深い洞察
①19節、「被造物全体も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。」
②20節、「被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望があるからです。」
③21節、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」
④22節、「私たちは、被造物自体が今にいたるまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」

B.8章23節、私たち自身も
「そればかりでなく。御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうきながら、子としていただくこと、すなわち、私たちのからだの購われることを待ち望んでいます。」
 
[4]集中と展開
(1)集中
 キリスト者が死を迎えるとき、魂はきよくされ、ただちに頭であるキリストのもとに引き上げられます。天上の勝利の教会へ移された魂は、地上にあるよりもさらに豊かな、キリストとの栄光の交わりにあずかります。
Ⅱコリント5章8−10節
「私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」

(2) 展開
 同時に、からだは、キリストに結び合わされたまま墓の中に休息し、栄光の神の国に置けるからだの完全な贖いと天地の完成を待ち望みます。
 再臨の日に、主キリストは、すべての死者をよみがえらせ、最後の敵である死を滅ぼされ
されます。キリストに結ばれ死んだ人たちは、朽ちるものから朽ちないものに復活し、キリストご自身の栄光のからだと同じ形に変えられます。

Ⅰコリント15章42−43節
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ」。
驚くべき希望に支えられ、地上の歩みを最後まで忍耐して歩みきるのです。

ローマ8章25節、私たち夫婦二人の生涯の聖句。
「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」

からだの贖い・復活は、
人生の最後のときだけでなく、
人生の最後を迎える日々、年を重ね体力が衰え、様々な変調が起こる最中にも明確な希望。

幼児のからだの変化が成長として受け止められ喜ばれるように、そのように、いやそれ以上に、人生の最後を迎える日々のからだの変化を、聖書をめがねとして、
「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」としっかり見抜き。見定め喜びに満たされる。
これが、「からだのよみがえり」を信じ告白する道です。